闇へ堕ちろ
仮にそこで《吾》から撤退する《吾》がゐるならば、
そいつは既に《吾》を他人に売りを渡した《悪魔》の眷属でしかない。
自らを自らにおいて断念した《もの》のみ《吾》は《吾》に対して問へるのだ。
――何が《吾》なのか。
と。
さうして初めて《吾》は《吾》を礼節に則りもてなせるのだ。
そこには厳しい《存在》に対する謙虚さのみがあるのみで、
さうして《吾》に断念した《吾》は、分を弁へる。
分を弁へた《吾》のみ、《吾》が発する祝詞の如き言葉を理解し、
《吾》は独りその針の筵の上の如き《存在》の《吾》に対して礼を尽くせるのだ。
そこに憐憫は禁物だ。
それこそ《吾》に対する非礼でしかない。
そのやうな儀礼なく、《吾》が《吾》に阿る愚劣は、
無間地獄への近道なのだ。
果たせる哉、《吾》は《吾》にあらず、《吾》において《吾》を断念することの理不尽を
《吾》が眦一つ動かさずに為す事は、至難の業であり、
ところが、《吾》はそれをいとも簡単に成し遂げるだけの熟練を《吾》は受精のその時から既に手にしてゐなければならないのだ。
それが生きるといふ事の全てなのだ。
微熱
風邪を引いて微熱がある中、虚ろな目はぼんやりと外界を眺め、
さうして、内界でゆったり浮遊する《吾》に憩ふ。
この安寧は風邪を引いた時のプレゼントで、
この虚ろな時間が私は大好きなのだ。
しかし、その中で逆立ちを試みる天邪鬼な《吾》がゐるもので、
微熱が出てぼんやりとした頭蓋内で、只管に《吾》を検閲する
張り切り《もの》のその《吾》は、微熱でぼんやりしてゐる《吾》の間隙を衝く。
そこで、驚いても手遅れで、吾は一槍でその《吾》のヤヌスの槍で一突きされて、
串刺しの魚さながらに内界で燃え盛る炎で焼かれて、
後は塩を振って《吾》に喰はれるのだ。
それが、もしかすると《吾》の本望なのかもしれない。
何《もの》かに喰はれることで《吾》は《吾》の《存在》を唯一正当化できるのかもしれないのだ。
最早、そんな事でしか《吾》は此の世でまったく正当化できない《存在》に成り下がってしまったのだ。
じりじりと焼かれる《吾》が発する呻き声に《吾》をヤヌスの槍で一突きした《吾》は、
サディスティックな欲情に満足を覚え、また一人、基督の後継者の《存在》を殺戮したのだ。
これが歓びでなくて何とする!
そんなとりとめもないことが走馬灯のやうに頭蓋に内を駆け巡りつつも、尚もぼんやりとした《吾》は、虚ろな目で外界を見つめてゐるのであった。
《世界》はそんな《吾》にとっては無慈悲に嗤ってゐる。それが《世界》がこれまで存続してきた秘密なのだ。
餓鬼
《吾》の内部に棲む餓鬼は何時も腹をすかしてゐるが、
しかし、餓鬼は《吾》が何を喰っても一度たりとも満足した事はない筈だ。
何に対して飢ゑてゐるかを、餓鬼はそもそも知らぬのだ。
ふん! 嗤ってゐるぜ、其処の餓鬼が。
「影でも喰らってゐろ!」
と、嘯く《吾》は、
餓鬼に対して知らぬ存ぜぬを決め込むのだ。
それと言ふのもそれが餓鬼に対する最上のもてなしだからだ。
餓鬼は放っておいても
食ひ扶持に困ることはない。
何故って、《吾》が《存在》する限り、
餓鬼はウロボロスの如く《吾》を喰らってゐれば
それで手持無沙汰は凌げるからな。
へっ。また嗤ったぜ。
――この餓鬼が! 早く《吾》を喰らって呉れないか。さうすれば、《吾》は少しは気が楽になるのに。
《樂》は此の世の陥穽だった。
《樂》の上に胡坐を舁いて座ってみたが、
その居心地の悪さといったならば、
名状し難き不快なのだ。
しかし、不快は物事を変貌させる原動力になるから《樂》は已められぬのだ。
――ちぇっ、不快は餓鬼のげっぷだぜ。
しかし、げっぷはげろげろげ、だ。
さうして《吾》はやっとの事、呼吸が出来たのだ。
陽炎
うらうらと立ち上る陽炎は
曖昧であってはならない。
それは、必ず私の存在を証明する証明書。
それが曖昧であっては私の立つ瀬がないではないか。
ゆらゆらと立ち上る陽炎は
たまゆらでも揺れてはならない。
揺れるのは私のみで十分なのだ。
存在を証明する陽炎が揺れては、
摂動する私を私は捉え切れる筈がないではないか。
私からするりと逃げる私てふ存在に対して
陽炎は薄羽蜉蝣(ウスバカゲロウ)の幼虫、蟻地獄に落ちた蟻の如く
私に束縛されてゐなければならぬのだ。
陽炎を見れば、そいつが此の世に確かに存在しているかが一目瞭然なのだ。
私は既に陽炎に呑み込まれてゐるのだ。
それ故に存在に触れたければ、陽炎を触ればいいのだ。
その時何も感じなければ、そいつは既に此の世のものではなく、
幽霊でしかない。
陽炎が堅固な物質として此の世に存在しなければ、
何を信じて私は生きやうか。
陽炎が堅固故に私は、私を追ふ永劫の鬼ごっこが出来るのだ。
さうして私は一息つきながら、陽炎を触って絶えず私の存在を確認してゐるのだ。
何時の時にか私はすっかりと陽炎と化して、
この時空間を自在に飛び交う念速を手にする希望なくして、
私は一時も生きた心地がしないのだ。
吾、この地に立つ。
さうして陽炎が私から絶えず立ち上るのだ。
それは恰も私が絶えず揺れ動く波として此の世に屹立する外に
存在出来ぬと世界に強要されてゐるかのやうに。
ゆらゆら動く陽炎は堅固な物質である。
これを最早疑ふ余地は全くないのだ。
一方、私はてふと水でしかない。
さうして私は今も水としてのみ此の世に存在してゐるに過ぎぬだ。
風撫でる
風は東風であらうが南風であらうが、
顔を撫でるやうに吹いてはいけない。
風はびんたをする如き朔風のやうに
刺刺しく、そして、存在をぶん殴らなければならないのだ。
さうして、存在は漸く覚醒し、吾を探し始めるのだ。
風は存在を斬り付ける鎌鼬(かまいたち)でなければならぬ。
さうして漸く存在は眼を開けられるのだ。
鎌鼬に切り刻まれた存在は
独り此の世の不合理を凝視し、
それを喰らふ豪放磊落な素振りを見せなければならぬ。
さうやって存在は己の存在に我慢が出来、
また、己に対して断念も出来るのだ。
世界を不合理な世界と嘆く前に存在は風にぶん殴られ、
はっと目を覚まさねばならぬのだ。
つまり、全ては己に非があると承諾せずば、
世界には先づ、相手にされぬ。
さうして世界が永劫の距離のある存在として
吾が世界を認識した時に、
初めて吾は吾に対して嘆けばよいのだ。
それまでは存在は風にぶん殴られながら
絶えず目覚めてゐなればならぬのだ。
決して寝ることなど出来ぬやうに。
風は東風だらうが南風だろうが
存在の頬をぶん殴るやうに此の世を吹きすさび、
存在を覚醒させねばならぬのだ。
さうして漸く吾は吾である事を自覚できるのだ。
影を追ふ
土台自身の影を追ったところで、何か摑める筈もなく、
しかし、それが無駄なことなのは知った上でも、尚、自身の影を追はずして
寂滅するのは口惜しいのは、存在する何ものも同等で、
さう思はずして果たして存在は存在出来得るのであらうか。