闇へ堕ちろ
確かに、俺は草臥れ果てた時に意識は様様な表象を断片的に瞼裡に出現させては、俺をきりきり舞ひさせ、尚更俺を草臥れさせる。草臥れた五蘊場には脈絡のない表象が生滅しては俺を困惑させるのだ。
――それでは一つ訊くが、意識とはEnergy体なのかね?
――さて、それがよく解らぬのだ。例へば、「念」に重さがあるとするならば、当然意識にも重さはあることは自明なのだが、「念」に重さがなく、光と同様のようなものだったならば、それは、重さがないEnergy体と看做す外ない。
――これまで、意識の重さを量ったことはあったのかい?
――いや、ないだらう。そもそも誰も意識がEnergy体とは考へてゐないからね。
――それでは意識を何と?
――脳の活動としか捉へていない。意識が独立したものとしては誰も看做してゐないのだ。それが共通概念なのだらう。しかし、誰もそれを確かめたものはゐないのだ。端から意識は脳活動によるものとしてしか看做せないのだ。
――へっ、それでは一つ訊くが、脳の活動とはなんぞや?
――それが解れば、誰も苦労しないだらうね。
俺はそのまま意識の重さを見失って、ふわっと浮き上がったやうな感覚に囚はれたのである。さうして、草臥れ果て、眼窩の目のみをぎらぎらと光らせながら闇を凝視するのであった。
土砂降りの中
何をも押し流さうとしているかのやうに
今日も土砂降りの雨が降ってゐる。
今はまだ出水にならぬ程度だが、
やがて野分がやってきて、
根こそぎ吹き払ふに違ふにちがいない。
屋根に当たる雨粒の音は、恐怖を誘ひ、
犬っころは隠れる場所を探すのにそわそわしてゐるが、
土砂降りの雨の中にぽつねんと座るのみ
これから更にこの土砂降りは酷くなり、
唯、野分けが過ぎゆくのをぢっと息を潜めて待つことしか出来ぬおれは、
土砂降りの中にぽつねんと座っているあの犬とどこが違ふのか。
何処かでは屋根が吹き飛ばされ、
何処では竜巻が発生し、
さうして、おれもまた、己の無力感に虚脱するのであるが、
その中で、出水に晒されるのは敢へて言へば不幸中の幸いなのか。
おれは野分けが来ると高揚する。
それは生死がかかった修羅場に対峙する高揚感に違ひなく、
生きるか死ぬかは、天のみぞ知る、若しくは、人間万事塞翁が馬でしかなく、
この諦念は人間の限界を突き付けられているその瞬間のそれに違いがないのだ。
――へっ、 人間は限界があるんだぜ。
と嗤ってゐるそいつが存在する。
そして、そいつとは何かというのは
名状し難きものとしてその気配のみしか感じられぬのであるが、
唯、そいつはおれの生死を握ってゐるのだ。
――そいつ。
何なのか、そいつとは。
そいつはあるとき”自然”といふ名を冠しているが、
だからと言って、そいつの正体が明らかになる訳でもなく、
唯、お茶を濁してゐるに過ぎぬのだ。
――ざまあないぜ。
とおれは自嘲の引き攣った嗤ひを己に対して浮かべるのみ。
――嗚呼、おれはこの緊迫した状況を確かに楽しんでゐて、己の死が近しいといふことが嬉しいのだ。倒錯したこの感覚は、既に捻くれたおれの本性の為せる技なのだ。
傷痕
何時火傷したのだらうか。
目覚めてみると右手に大きな水ぶくれした傷痕があったのだ。
おれはよくパイプ煙草を持ちながら寝てしまふ愚行を繰り返してゐるのだが、
此の傷に全く気づかずに寝てゐたことから、
火事で焼け死ぬ人は夢見中に心地よく焼け死んでゐるに違ひないと強く思ふ。。
睡眠中には熱いといふ感覚、つまり、全的に感覚が麻痺してゐる事を知ってしまったおれは、
基督教徒ではないが、
例えば、煉獄を通って焼かれても何にも感じずに浄化されるといふ現象は
本当かもしれないと思ひ始めてゐる。
何の感覚も無いという絶望は、
意識を失って卒倒してゐるに等しく、
それはおれの無残な敗北でしかないのだ。
何に対する敗北かと言へば
それは、地獄さ。
地獄で卒倒してしまへば、
それは地獄の責め苦に何の効力も無くなり、
おれは卒倒してゐる故に全く何にも感じないのだ。
それは、危険なことに違ひない。
己の限界値をぶち切ってしまっても、
尚、地獄の責め苦を受けるといふことは、
それは既に処刑でしか無く、
地獄で生き残れた念にとって
自殺行為なのだ。
――へっ、地獄で自殺? 馬鹿らしい。
しかしながら、仮に地獄で自殺できるのであれば、
その自殺した念は何処へと行くのだらうか。
――地獄に決まってるだらうが。
地獄で自殺した念はまた地獄へと舞ひ戻るならば、
その円環から抜け出せなくなった念は五万とゐる筈で、
それこそ浮かばれぬ念の行く末は、何かといへば
自殺はまるでBlack holeいふ事か。
一度自殺をしてしまふと、それは地獄へ行く筈で、
地獄でまた自殺をし、
さうして再び地獄に舞ひ戻る。
これを蜿蜒と未来永劫に亙って繰り返す地獄の最下層に吸ひ込まれた念どもは、
結局自殺するといふ《自由》を選んだつもりが、
Black holeの中を行きつ戻りつしてゐるに過ぎぬのかも知れぬ。
嗚呼、哀れなる念どもよ。
自由を行使したつもりが、
不自由の真っ只中に
囚はれる愚行を、
自殺といふ行為で行ってゐるに過ぎぬことに気付かぬをかしさ。
Black holeに行きたければ自殺すればいい。
何の事はない、
Black holeも日常に五万とあるぢゃないか。
その一形態が自殺だとすれば。
さうして今日も日常が始まり、そして終はるのだ。
果たして時は失せるものなのか
絶えず現在に留め置かれる現存在は、
果たして絶えず現在といふ時を失って、
全てが過去のものへと変節するといふ先入見から脱出できるのであらうか。
さう、過ぎしき過去といふ時間認識は、明らかに間違ってゐる。
過去との連続性を保つ事で、現存在は、現在に佇立でき、
現在の中でも現存在が回想するといふ行為を行ふ事で
やっと現存在は、現在に屹立できるであって、
そのやうに思考する現存在は、未来に対しての準備をもしてゐるのだ。
だって、をかしいぢゃないか。
現存在は、過去を振り返ることも可能であれば、未来も予想することも可能であり、
とはいへ、その精度は不確かなだけなのだ。
例へば精度が寸分違はぬといふといふ場合、
現存在はもう、此の世に存在する義理は無く、
未来が全きに予想通りならば、
そんな人生ちっとも面白くありゃしない。
そして、記憶がFuzzy(ファジー)である事が、
つまり、揺らめく事で、
現存在は、現在を楽しんでゐるのであり、
また、苦しんでゐるのである。
喜怒哀楽のない時間なんぞ、果たして現存在は堪へ得るのであらうか。
全てが過去のData(データ)から予測できる未来を手にしたところで、
そんなものは現存在は、忌み嫌ふやうにして毛嫌ひし、
そんな時間の流れは、必ず恨むばかりの筈なのだ。
さて、時は失はれるものなのであらうか。
積年といふ言葉があるやうに
時もまた積もる筈で、
既に予測可能な時間なんぞ、これまで一度も存在したことがなく、
一寸先は闇といふ時間の在り方しか今昔を通してありゃしないのさ。