闇へ堕ちろ
その出番をいつまでも待ち続けてゐるに違ひない。
そんな馬鹿な夢想に耽るおれは、
その短い一生を生き抜くのであるが、
短い一生とは言へ、おれにとっては、
おれの寿命は多分、ちょうどいい長さなのかも知れぬのだ。
それが死産で終はらうと、
二十歳の早すぎる死で終はらうと、
将又、百歳まで生きやうと、
それはおれにとってはちょうどいい長さの一生なのだ。
今はまだ生き延びてゐるおれは、
おれの最期を思ひながらも、
現在を快楽に溺れながら過ごしてゐるのだ。
棚引く雲
蒼穹の下、
おれは変化して已まぬ雲を眺め、
時にその雲の影に蔽はれながら、
雲が棚引くその雲の影と蒼穹の対比に
得も言へぬ美しさを見出したのか。
おれはこの他者がゐて、歴史とがある此の世に生まれた不思議に感謝しながら、
もしかしたならば、おれはおれのみしか存在しない、
歴史もない世界に生まれ出る可能性があった筈であるが、
それを回避して此の他者がゐて、歴史がある此の世界に生まれ出たことに
それだけでおれは幸せなのかも知れぬ。
さう思はずして、此の痛苦しかない世の中で、
何に縋って生きてゆけると言ふのか。
何時も嘆くことばかりをしながら、
それでゐて、己が生きてゐる事に胡座を舁くおれは、
何にも解っちゃゐなかったのだ。
雲間から陽が射し、影が作るその美は
此の世界が鮮烈な印象を各人に残しては、
己の存在に思ひ馳せるきっかけばかりをおれに見せる。
此の美しい世界に生まれ出たことの不思議は解らずとも、
それを存分に堪能することは出来てしまふ此の世の優しさが、
おれにとっては苦痛でしかなかった。
慈悲深い此の世の有様は、
おれを冗長にさせて、
何を語るにも、無意味に響くその言葉は、
誰の胸に響くのか。
虚しさばかりを齎す言葉を発するといふことは、
一つの才能に違ひになく、
つまり、それはおれが虚しいといふことを白状してゐるに過ぎぬが、
おれはそれを受け容れているのか。
じりじりと皮膚を焼くような陽射しに安寧を感じ、
変化する雲の形に喜びながら、
棚引く雲は、地に影を落としながら、
此の世の美しさを演出するのだ。
何がおれをかうして焼けるやうな陽射しの下に立たせると言ふのか。
それは変化して已まない棚引く雲を見ることで、
時間を見るといふ錯覚に酔ひ痴れたかったのか。
哀れなる哉、このおれは。
初夏の陽射しが焼く皮膚をして、
おれはおれの存在を感得するのか。
棚引く雲よ、
その影の美しさを知ってゐるかい。
籠もる人
そのものは独りであることに耽溺し、
吾といふ玩具を見つけてしまった。
そのものにとって吾は弄ぶもであって、
自己相似、つまり、Fractal(フラクタル)なものとは全く予想出来ず、
そのものにとって吾は吾と分離した何かなのであった。
この矛盾がをかしくて仕方なかったのか。
そして、そのものは、終ぞ
――おれ。
と言ふことは憚られ、また、一生言ふ事はなかった。
では、そのものが自己を指して語るとき、
――あれ。
として語り出す。
それは当然のことで、
吾とはそのものにとって玩具以上の物にならず、
変態を続けるその吾はそのものにとって飽きることはなく、
それ以上に耽溺させるのだ。
独り吾に籠もるそのものは、
始まりも終はりもないその吾の出自と最期を
想像することは全く出来なかったのである。
つまり、吾とは不死なるもので、
そのものにとって「あれ」と分離した「おれ」は
「あれ」が死んでも「おれ」は生き残るものとしか思へなかった。
不老不死といふ儚い夢を見ることで、そのものは生き生きとし、
不老不死は「あれ」の出来事として思ひ込む。
さう錯覚することで、そのものは吾を玩具に出来たのだ。
そして、その吾はそのものにとって粘土の如くあり、
手で握り潰しては成形すると言ふ事を繰り返し、
吾は、そのものにとってのお望み通りの物になる筈であったのだが、
終生、吾はそのものにとって理想の形に成形されることはなかったのである。
果たして、そのものにとって理想はあったのか、不明であるが、
ただ、そのものは粘土の如き吾を捏ねくり回しては、
陶器の如く、その形を内部の火炎に晒しながら、
堅固な吾を作のだが、
それは一度もそのものの予想した物になることはなく、
そのものはせっかく作った陶器の如き吾を地に叩き付けて割るのであった。
そのものは終生、解り得なかったのか。
内部の火炎に晒して、陶器の如き吾を内部の窯で焼くことには
自己の意思では制御出来ぬことを。
それが「自然」の発露であることを。
熱風の中で
頭がくらくらするほどの熱風に塗れながら、
おれは灼熱の中、歩を進める。
何故故にこんな日に歩かなければならないのか、
理由はなく、
唯、おれは、熱風に塗れることで現はれるへとへとに草臥れたおれを罵倒したくて、
歩いてゐる。
溢れるやうに噴き出る汗を拭ひながら、
直ぐ熱風に困憊するおれは、
それでも目玉だけをぎらぎらと輝かしながら、灼熱の中を只管歩くのだ。
意識が遠くなりつつも、おれの中に意識を留めるべく、水を飲みながら、
脊髄が痺れる嫌な感じに苛まれ、
そのときに不図現はれる真黒き「杳体」は、
おれを覆ひ尽くし、
おれの本性が現はれることを
目論むおれがゐるのである。
しかし、それはおれを欺瞞するための方便であり、
「杳体」なんぞ、ちっとも信じてゐないおれの
その場凌ぎの窮余の策であって、
脊髄が痺れるその嫌な感覚に圧し潰れて倒れさうなおれは、
案山子のやうに、唯、佇立するのだ。
その中で、陽炎が上るおれの影を凝視しては、
唯、
――立ってゐる。
と、思ふことで安寧するおれは、
その姿に、また、欺瞞をも感じる馬鹿なおれがゐる。
しかし、何もかも欺瞞の烙印を押して溜飲を下ろしてゐるおれの
そのCatharsis(カタルシス)は、狡賢い詐欺師が詐欺を行ふことと何ら変はりがないのだ。
熱風が吹き付ける灼熱の中を只管歩を進めるおれは、
噴き出る汗をものともせずに、
痺れ行く体を心地よ行く感じながら、
脊髄が痺れる嫌な感じを払拭するのだ。
さうしておれは、眩む視野に穴があいたやうに黒点が現はれる其処に
ぐっと意識を集中させては、
「杳体」の何たるかを見果せるまでは、
歩くことをやめぬのだ。
――へっ、「杳体」なんぞ、信じてゐるのかい? そいつは目出度い。ここにもまた、馬鹿が一人ゐたぜ。
ふわっと浮く
余りに草臥れた時、
意識は、己がふわっと浮く感覚を察知する。
その時、意識は自由落下してゐて、
意識の重さを見失ってゐるに違ひない。
――何? 意識に重さがあると?
――当然だらう。それは脳に重さがあることから自明のことさ。
――何故、自明のことなのかね。
――例えば脳が活発に活動してゐる時にはEnergy(エナジー)が増大し、脳は膨張してゐる筈だ。俺の言葉で言へば、五蘊場にEnergyが増大した故にその分確実に意識の重さは増大し、俺は意識を見失ふのだ。