闇へ堕ちろ
それは、貴女のゐないことでぽっかりと穴が空いた胸奥を
埋めやうとしてゐるだけに過ぎない。
ゆっくりと時間は流れながら、
俺は、独り身の侘しさに
今更ながら感じ入って
貴女のゐない現実を凝視してゐるのだが、
過去が思ひ出に収斂してしまった現在に、
現実の重さを量ってゐるのか
貴女がもう俺の傍にゐない軽さが妙に哀しさを誘ふのだ。
人一人の存在がこれ程恋しいとは、
おれも歳を食っちまったのだらう。
――へっ。
と、自嘲の嗤ひを発しながら、
かうして夕餉を喰らってゐるのだが、
その寂しさは全く埋まらぬのだ。
そんなことは当然なのは知ってはゐても、
ついつい間隙を埋めようと
心に空いた間隙をものを喰らふことででしか
埋められぬ侘しさに酔ふやうにして、
ナルキッソスの如く俺は自分に酔っ払ふのだ。
さうして、貴女がゐないこの現実を遣り過ごす。
スピーカーからはアストル・ピアソラの情熱的な曲が流れる。
既に貴女との関係が始まったときから
こんな日が来るのを予感してゐたおれは、
きっと貴女のことをちっとも愛しちゃゐなかったのだ。
自業自得とはいい言葉だ。
そんなことをつらつらと思ひ浮かべながら、
俺は只管、夕餉を喰らふ。
頭の髄が痛む
何時ものやうに疲労困憊すると
俺の脳といふ構造をした頭蓋内という闇たる五蘊場の髄ががんがんと痛むのだ。
それは、おれに生涯に亙って課された業苦に違ひなく、
おれが此の世に存在することに実感するには良い機会なのだ。
それは私の五蘊場がぐりぐりと捻じ曲げ上げられ、
五蘊場が少しだけ、現実とずれることによるおれの悲鳴なのだ。
何時も、現在にあることを強要される現存在は、
ちょっぴりその現在とずれると
心身は彼方此方で悲鳴を上げ、堪へ難い痛打として現在にある現存在には感じられる。
それがおれの場合は、五蘊場の髄のがんがんとした痛みで、
その痛みを持って、おれは現在にあることを強要されることに疲れてゐることを認識するのだ。
その疲れ方は途轍もなく酷いもので、
現在にあるおれには、
その痛みなくしては一時も現在を認識できぬほどにおれの感覚は疲弊してゐる。
何をして誰もが此の世に存在するといふ根拠にしているのかはいざ知らず、
おれにとってはこの五蘊場の髄が悲鳴を上げるこの頭痛が唯一の存在根拠なのかも知れぬ。
この頭痛は定期的にやってきては、おれをのたうち回すのであるが、
それが既に快感に変じてゐるおれにとって、
五蘊場の髄ががんがんと痛む現象は、
おれが蜃気楼でないことの証明であり、
おれが実在するものとして感じ入る唯一のSignなのだ。
象徴としてのおれはこの五蘊場の頭痛であり、
この不快感こそおれの存在根拠なのだ。
不快を以てして此の世に存在する根拠とした埴谷雄高は間違ってはゐなかったが、
その畢生の書『死靈』は、敢へて言えば失敗してゐて、
それでも一生かけて書き継がれた『死靈』は、
此の世に或る一人の現存在が確かに存在したことの証明であり、
その論が間違ってゐたとして
誰に害があると言ふのか。
そして、おれのこの頭痛は
おれが縋り付くことで快楽に変はり、
頭痛の間だけ、おれの心は静穏なのだ。
この平和なおれの在り方は、
頭痛が齎す快楽であり、
何ものもこの平穏なおれの在り方を脅かす存在は
頭痛がしている時間の間だけではないのだ。
この無防備なおれにとっての平穏な時間は、
おれを疲弊から救ふ端緒であり、
さうして、おれは今日もまた生き延びられるのだ。
さあ、今こそ、おれはおれであることを満喫できる時間であり、
存分にこの五蘊場の髄ががんがんと痛む快楽を堪能するのだ。
蒼穹
雲一つなく、澄明な薄藍色に染まった蒼穹をおれは
脱臼しちまった双肩で担ぐ苦悶に身悶えしながら、
隣に偶然居合はせた赤の他人に愚痴をこぼしては、
湾曲した蒼穹のその撓みの恐怖に打ち震へる。
シーシュポスの如くその永劫に繰り返される業苦は、
しかし、おれが生きてゐる間は、それは誰にも代われるものではなく、
おれは世界を支へてゐる幻想に酔ひながら、
何万屯もある蒼穹を背負ひ続ける。
何がさう決めたのかなんてどうでも良く、
おれのこの業苦は、先験的なものに違ひないと端から思ひ為しては
――ぐふっ。
と咳き込みながら、確かに隣に居合はせた筈の赤の他人に愚痴をこぼしてゐる。
蒼穹を背負ふおれの影は、地平線まで伸びてゐて、
おれも蒼穹に届くほどの背丈になったのかと
感慨深げに思ふこともなくはないのであるが、
しかし、そんなまやかしに騙されるおれではないのだ。
確かに
――重い。
といった奴がゐて、
それは偶然おれの隣に居合はせた赤の他人の言であり、
しかし、おれではないと思ひたかったのかも知れず、
また、おれは健忘症に既に罹ってゐたのかも知れぬのだ。
何とも便利なおれの意識状態ではあるが、
唯、蒼穹の眩い薄藍色に見とれ、惚けてゐたのは確かで、
そのずしりとした重さなんて、
蒼穹の美しさに比べれば、
何の事はないと思ひ込みたかったのかも知れぬ。
やがては必ず来るに違ひないおれの潰滅は、
一つの小宇宙の死滅であり、
おれが見てゐた蒼穹は、
永劫に此の世から失はれ、
しかし、倒木更新の如く、
おれが屹立してゐた位置に
必ずまた誰かが屹立する筈なのだ。
さうして、世界は受け継がれてゆき、
おれがかうして見とれてゐる蒼穹は、
何時ぞや誰かが見てゐた蒼穹とそっくりな筈なのだ。
かうして誰かの骸の上にしか立てぬ現存在は、
既に呪はれてゐて、
いつ何時殺されるのか解らぬのだ。
そもそも、現存在が此の世に育まれる受精時に
卵子も精子も無数に死んでゐて、
此の世に存在することは死屍累累の骸の上にしか立てぬといふことなのだ。
それでも蒼穹を担ぐおれは、
おれの位置を知りたかったのか。
それとも死者と語りたかったのか。
もういいかい
何処からか、
――もういいかい。
という鬼ごっこをして鬼になった子どもの声が聞こえてくる。
おれは、
――ふん。
と、その幻聴を嗤ふのであるが、
しかし、本当は気になって仕方がないおれがゐるのもまた事実なのだ。
その幻聴はしかし誰に向かって、
――もういいかい。
といってゐると言ふのか。
――ちぇっ、おれに決まってゐる。
と、この猿芝居に腹が立たないこともないのであるが、
おれは絶えず、おれを試しておかなければ、ちぇっ、単刀直入にいふと、おれはおれが嫌ひなのだ。
しかし、おれはそれでいいと思ってゐる。
といふよりも自分のことが好きな人間を全く信用してゐないのだ。
自虐的なことが存在の前提、つまり、先験的に付与されたことで、
自らを責め苦に遭はせない存在など、
さっさと滅んでしまへばいいのだ。
さうすれば、ちっとは住みやすい世界が創出出来るかも知れぬが、
自虐的な存在で埋め尽くされた世界は、
しかし、現在ある世界とちっとも代はっちゃゐないとも思ふ。
世界とはきっとそんなものぢゃないかと世界を見下してゐるおれは、
世界に反抗しながら、
おれの憤懣をぶつけてゐるに過ぎぬのであるが、
それは単なる八つ当たりに過ぎず、