闇へ堕ちろ
その一つ目で、死人の頭蓋内の念を見てしまってゐるやうな錯覚を覚えるのであるが、
しかし、それはまんざら錯覚とは言へぬもので、
もしかするとそれは真実なのかも知れぬのだ。
それはあまりに幻想的で、また、幻視の世界が展開するのであるが、
それは念である以上、全てが真実である可能性はあり、また、真実かも知れぬのだ。
此の世に残した未練のやうなものが、
それを俺に見せることで、
俺に受け継いで欲しいとの念の強さが、
存在するのかも知れぬ。
それは例へばこんな風なのである。
ある人が亡くなったとき、俺は起きられずに朝方寝て夜まで寝てゐたのだが、
その時、その人がかねてより述べてゐた、
金色の仏像が砂のやうに崩れてゆく様を目の当たりにし、
それは、「虚体」を語れといふその人の念が
疾風怒濤の如く吾が五蘊場を攪拌したのである。
その渦動は、ぶつ切りの表象を吾が五蘊場に浮かべたのであるが、
それを繋ぎ合わせるとその人の生前に語ってゐた物語の最後の部分に当たるのであった。
これには、その時には驚いたのであるが、俺はその人に指名されてしまったことを自覚し、
しかし、その人の念を追って「虚体」では存在の尻尾すら捕まへられぬと観念した俺は
「杳体」なるものを考え出したのであるが、
それは別の作品に譲るとして、
吾が肉体は長患ひのために、死に一歩一歩と近づき、
到頭、死者の魂、いや、念の通り道になったのである。
それはそれでいいと最近では思ふまでになったのであるが、
絶えず死者がそばにゐるといふことは、実に気分がいいのである。
さうして今日もまた、死人の念が俺を通り過ぎる。
逃げ水
其(そ)はまやかしか。
俺は確かに存在の何たるかを摑んだ筈なのだが、
ぎんぎんに輝く灼熱の太陽光がほぼ垂直から刺すように降り注ぐ中、
陽炎は此の世を歪曲し、世界を何か別のものへと変へてしまってゐる。
その中で、確かに俺は存在の何たるかを摑んだ筈なのだが、
それは邯鄲の夢の如く夢現の眷属でしかなかったのか。
ぐにゃりと曲がった林立する高層Buildingの中に
確かに其はあった筈なのだが、
それは逃げ水の如く吾が掌から逃げてしまってゐた。
そもそも存在といふものは気まぐれで、
その正体を絶えず隠しながら、
存在は、存在を追ふものに対して
あかんべえをするものなのだ。
そんなことは既に知ってゐた筈だが、
俺としたことが、
存在がするあかんべえにまんまと騙されちまった。
無精髭を伸ばしたそいつは、
鏡面まで追ひ込んだのだが、
変はり身の早いそいつは、
覆面を剥ぐやうに存在の素顔を剥ぎ取り、俺の面を被りやがったのだ。
当然鏡面に映るのは俺の顔なのだが、
その顔の生気のないことと入ったら最早嗤ふしかなかった。
しかし、錯覚は時に世界に罅(ひび)を入れ、
そのちょっとした隙間から垣間見える
彼の世が見えるものなのだ。
錯覚は脳が作り出した映像と言はれるが、
だから尚更、錯覚の中には、存在の正体が紛れ込んでゐて、
何食はぬ顔で俺を愚弄してゐるのだ。
何せ、脳という構造をした闇たる五蘊場には異形の吾が犇めき、
どいつが
――俺だ!
と言挙げするのか、待ってゐる状況で、
その異形の吾は、どれもが直ぐさま
――俺だ!
と言挙げしたいのだが、どいつも性根が据わってをらず、
どの異形の吾も、
――俺だ!
と言挙げする勇気はなく、臆病にも身体を寄せ合って五蘊場に犇めき合ってゐるのだ。
さうして、その押しくら饅頭から弾き出されたものが、渋渋、
――俺だ。
とか細い声を上げて俺を絶えず愚弄することを始めるのだ。
すると、異形の吾は、途端にその意地の悪い性根が生き生きとし出して、
舌鋒鋭く俺をやり込める。
最初はそれに戸惑ひながらも、
俺に対して言挙げをするそいつは、
さうしてゐるうちに
――俺だ。
と己のことを錯覚、いや、錯乱し出して、譫妄(せんもう)の如く俺をでっち上げるのだ。
さうしてでっち上げられた俺は、もう訳が解らずでっち上げられた俺を唾棄するのだ。
ところが、俺が俺を唾棄したところで、結果は同じことで、
直ぐさまでっち上げられた俺があてがはれ、
恥も外聞もなく、
――俺だ!
と俺に対して最後通牒を告げるのだ。
しかし、それが決して許せぬ俺は、最後は、でっち上げられた俺を撲殺し、
譫言(うはごと)を呟き始める。
――俺は終はった。さうして倒木更新の如く若芽の俺が、再び芽生えるまで、俺は俺であることを宙ぶらりんにしておくのだ。撲殺されたとは言へ、その死体は俺なのだから。
でも、俺の若芽は、いつまで経っても芽生えぬであった。
ライブ殺人といふ広告
遂に、否、やはり、殺人生中継が現在最も効果的な広告であり、
誰もがそれに釘付けなのだ。
死ほど心を紊乱し、打ちのめすものはなく、
打擲して心に刻み込まれるライブ殺人の数々は、テロリスト達の絶好の広告でしかないのだ。
そんなことは人類史の黎明期においても既に明白だった筈で、
今更強調することでもないが、
ライブ殺人の光景の阿鼻叫喚の地獄絵図は、
何よりも強烈な広告であり、
それ以上に恐怖を植ゑ付けるにはこれ程効果的で低予算な広告はありはしないのだ。
ライブ殺人広告の犠牲になった人人はしかし、全く浮かばれず、
一命を賭しての価値はないのであるが、
しかし、テロルには誰もが巻き込まれる危険があり、
誰もがライブ殺人広告の一欠片でしかないこの状況は、
世の紊乱を望んでゐるテロリストの思ふ壺で、
現在の勝利者はテロルなのかも知れないのだ。
民主主義はテロルの前では無力であり、
平伏すのみなのだ。
こんなことは既に何遍も人類史の中で繰り返してきた人類は、
再び同じことを繰り返し、
テロルの恐怖で人心を操る快感に酔ひ痴れるものたちが、
その広告の絶大な効果にかっかっかっと哄笑してゐるに違ひない。
ならば、テロリストの剿滅をとなるのであるが、
それは悉く失敗に終はる。
何故って、テロリストにとってはライブ殺人は効果絶大な広告であり、
それは自らの死においても全くその道理が当て嵌まり、
テロリストたちは己の死も広告として活用するのだ。
死が死を呼ぶこの戦況の中、
テロルは次次と世界各地で起き、
最早誰が勝利するとかはどうでもよく、
テロルが飛び火すれば、
テロリストにとってはライブ殺人広告は効果があったといふことなのだ。
再び、文明は溶け出すのであらうか。
ならば、現存在には、いつでも死ねる準備をしておくことを強要し、
日一日生き延びたことに感謝する新たな、いや、嘗てあった思想が復古するに違ひない。
さあ、テロルをも呑み込む思想を構築せねば、
現代文明はテロルに焼尽されるのみなのだ。
切羽詰まった存在ほど、侮ってはならぬのだ。
テロルとは、さういふ人たちの思想の結晶なのだ。
その思想を凌駕する思想が構築できなければ、万人はテロルに呑み込まれるのみ。
これは再び、恐怖が統べる王国の誕生なのだ。
寂しいと言ったところで
寂しいと言ったところで、
もう、貴女との関係が元に戻ることはない。
おれは、かうして夕餉を喰らってゐるが、