闇へ堕ちろ
宿主を殺すのを目的としてゐるものが
何故にか存在し、そして、宿主の死とともに自らも死ぬそれらの寄生虫は、
何をして宿主を、そして自らを死へと追ひやるのか。
寄生虫にとっての宇宙は宿主の体軀であり、
そこから食み出す時は、
唯、他の宿主を求めて媒介する生物により、
外宇宙へと飛び出すのであるが、
しかし、それもまた、寄生虫にとっては飽くまでも内宇宙のことでしかなく、
つまり、外宇宙に関してそもそも寄生虫は知り得ぬのだ。
認識外にある寄生虫における外宇宙とは、さて、何を指すのであらうか。
それは、現存在の想像でも思ひも付かぬ外宇宙に等しく、
寄生虫にとって宇宙とは宿主のことでしかなく、
それは既に全体が想像出来る存在であり、
それは現存在が宇宙の涯を想像するのによく似てゐるのだ。
さて、何人の現存在が外宇宙を想像出来ようか。
そもそも宇宙が閉ぢたものでないと言ふ証左はなく、
とはいへ、此の宇宙が閉ぢたものであると言ふ証左もないのだ。
つまり、現存在は、此の宇宙における寄生虫であり、
芸術的に自然を破壊する現存在は、宿主を殺すべくある寄生虫にそっくりなのだ。
果たせる哉、現存在は予定調和の如く自らが生活する環境を
何の躊躇ひもなく変へてしまふ此の寄生虫は、
自らの大量死の死屍累累とした様を見るかのやうに
日常を非日常へと変へるべくして、
せっせと世界を変へてしまひ、
さうやって現存在は此の世の春を謳歌し、
さも此の世の王の如くに生きてゐたのであるが、
ここに来てそれも限界を迎へたことを悟った現存在は、
自然の猛威に打ち震へながら、
ひっそりと身を潜めることしか最早出来ぬのだ。
それでも宿主の死は己の死であることをやうやっと悟った現存在は、
世界を己の生きやすいやうに変へてしまふ暴挙を猛省し、
只管、持続可能な世界にするべく、現存在の日常を見直してゐるのだが、
しかしながら、世界を変へるだけ変へ尽くし、
尚も世界に大きな負荷をかけてゐる現存在は、
自滅する寄生虫そっくりに宿主とともにその死を待ち望んでゐるかのやうな存在なのだ。
科学技術の発展と言っても
それは現存在が認識できた科学といふものの氷山の一角の応用でしかなく、
また、現存在は世界を科学的に認識出来てゐるのはほんの少しでしかなく、
その背後には厖大な秘密が隠されてゐて、
それの暗幕が剝ぎ取れるのは、
何時のことになるのかは知らぬ。
中途半端な世界の理解と認識をもとにして科学技術で世界を変へた現存在は、
それ故に未知なる世界の本性を見ることなく、滅びる可能性が大なのだ。
きっとごきぶりを初めとする昆虫が世界がどんなに変はらうと生き延びて、
現存在の馬鹿さ加減を後世に伝へるに違ひない。
そして、最期の一人となる現存在は
何を見て、何を語るのか。
さうして、そいつは何を残すのだらうか。
せめて滅び行く最期の日であっても
何の変哲もない日常を送って、
死すればいい。
人類の最期の一人は、さて、日常を持ち切れるのだらうか。
断念
何事に対しても既に断念する癖が付いてゐる私は、
決して偶然なる事を受け容れる事は不可能なのだ。
偶然に死すなどと言ふ事は断じて受け容れられぬのだ。
何もかもが必然でなければ、私は現実と言ふ荒ぶるものを受け容れられず、
さうであればこそ、私は断念したのだ。
何に断念したのかといふとそれは私といふ存在についてであり、
私が既に存在すると言ふ事は最早偶然ではなく、徹頭徹尾必然なのだ。
例へば偶然性の必然性と言ふ言ひぶりは、何をか況やなのである。
偶然であることが必然であると言ふ規定の仕方は、
成程、それはその通りだらうが、
現存在の感情としてはそんな言ひぶりでは決して受け容れられぬ。
受け容れられぬから私は断念をしたのだ。
偶然である事はこの人生において
不合理でしかなく、
それを受け容れるには、偶然であることを断念し、
全ての出来事、若しくは現実は必然と看做して
辛くも己の存在を受容するのだ。
さうでなくして、吾はどうして此の不合理極まりない現実を受け容れればいいのか。
「ちぇっ、不合理と言っているではないか」と半畳が飛んで来さうであるが、
不合理である事も含めて私は現実を断念してゐるのだ。
――何を偉さうに!
と私は私に対して自嘲してみるのであるが、
さう自嘲したところで、私は既に私に対して断念してゐるのだ。
断念しなければ、現実を受容出来ぬ私は、
もとはと言へば、執念深く猜疑心の塊でしかなかったのであるが、
さう言ふ私に対して何処までも幻滅してゆくのみであった私は、
断念する事でやうやっと此の重重しい私の体軀を持ち上げ、
また、重重しい頭を擡げては、その私の有様に対して断念してゐるのだ。
あらゆる事に対して断念することの不合理は、
しかしながら、私に悟りを強要するのであるが、
私はそれを決して受け容れぬのだ。
此の世で達観したところで、
そんなものは高が知れてゐて、
無明に足掻く私と言ふものでしかないと言ふ事に
私と言ふ存在は断念することでさう結論づけられ、
さうして静謐にあり得るのだ。
さて、存在に対して断念すると言ふ事は
様様なものに対して無関心と言ふ副作用を生む可能性があるのであるが、
それは杞憂と言ふもので、
私はいつ何時(なんどき)も私に対して断念するのだ。
断念できぬものは、きっと哀しい存在に違ひない。
さうとしか思へぬ私は、
当然の事、生に対してもの凄く消極的なのだ。
しかし、私はそれで構はぬと思ってゐる。
我先に積極的に生きられる幸せ者は
私の性に合ふ筈もなく、
私は断念する事で荒ぶる私を納得させてゐるのだ。
それを理性的と呼ぶには余りにも消極的なその存在の有様は
最早変はる事なく、死すまで続けるつもりだ。
しかし、此の矛盾した私の有様は、
へっ、嗤ふしかない程に下らぬ私の主張は、
支離滅裂な故に私を私たらしめるのだ。
断念すると言ひながら
此の現実を不合理と嘆く私の此の矛盾は、
矛盾として受け容れるべくこれまた断念してゐる証左でしかないのだ。
一%の大富豪と九九%の貧民ども
これは既に何年も前に予測されてゐたことに過ぎず、
このことに対して何の感慨もないのであるが、
貧民の私は勝ち負けで言えば完全に負け組なのだらう。
それでもドストエフスキイが『悪霊』で既に見抜いてゐた現代の実相は、
どうあっても貧民の革命なくしては変はる筈もなく、
革命こそが現代の貧民に課された使命なのだ。
――革命? 馬鹿らしい!
などといふ言葉を吐くものは、既にこの階級格差社会を受容してゐるのだ。
そんな奴に社会を任せる訳にはゆかぬ所まで、その格差は開いてしまった。
九九%の貧民どもは、一%の大富豪に雇はれてほくほく顔をしてゐるならば、
それは大富豪どもの思ふ壺で、
一%の大富豪どもをその地位から引き摺り下ろさなければ、
貧民どもの怨嗟は消えぬのだ。
現状に満足してゐる馬鹿者達は、既に貧民として馴致されてゐて、
直に人工知能にその地位を奪はれることは規定の事実なのだ。
大富豪どもにとって貧民は一人消えようが全く心が痛むことはなく、