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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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闇へ堕ちろ

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だが、それでいいではないかと私は思ふのだ。
これまでの人間の悪行に対して償ふには、一度人間は無機物の奴隷と化して
贖罪をする外にない。

それが今に生き残れた人間の唯一の奴隷に対しての贖罪の仕方なのだ。
さうして静かに人間、否、現存在は潰滅するがいい。



哀しき光線

ひとたび発せられてしまふと、
仮に宇宙が有限だとして
もう宇宙を一周する以外に元の場所に戻れぬ素粒子どもの中でも、
光子は特に哀しいのかもしれぬ。
或る人は何物にもぶつかることが殆どないニュートリノが哀しいと言ったが、
Energy(エナジー)に物質を変換する光速度で飛び回る光はといふと、
量子と反量子との衝突による対消滅で発せられる光が、
最期の存在の断末魔であり、または、最期の存在の大輪の花火であるかもしれぬ。

毎夜、空目掛けて発せられるLaser(レーザー)光線の哀惜は
それが最早この地に戻れぬことなのだ。
自身の誕生の地に二度と戻れぬ光線を何の躊躇ひも感ぜずに発せられる人間の傲慢は、
光を自在に操れる此の世の王とでも思ってゐるのか、
何の躊躇もなく、毎夜無数のLaser光線が空目掛けて発せられる。

その哀しみを感じてしまったもののみ、手を合はせ、
南無と、若しくは桑原桑原と光の復讐を恐れるのだ。
それを杞憂と嗤ってゐられる存在は、
なんとお目出度い存在なのか。
光に焦がれて焼死するのはいとも簡単なのだ。

例へば炎の光は、物質を焦がし、生物を焼死させる。
稲妻は感電死させ、若しくは焼死させるのだ。

身近な光の怖さを知ってゐる筈の人間は、
しかしながら、光の復讐に思ひ至らず
火事の炎の光と太陽光の核融合により発せられた光とを分別して、
火事の炎の光を恐れ、太陽光の光線には慈悲すら感じてゐるのだ。

此の区別は何処から来るのかといふと、
距離の違ひでしかない。

炎の怖さを知ってゐるものは、囲炉裏の火を消すことなく、
何百年も炎を燃やし続け、火の神様を敬ってゐる。
火が身近なものほど、
火を崇めるのだ。

Zoroaster(ゾロアスター)教ではないが、
炎の光をぢっと眺めてゐると、
其処には大いなる慈悲深さと癒やしの大河の片鱗を見、
それは自ずと太陽光へ、
若しくは宇宙の涯の星の輝き、そして、素粒子と結びつくのが現代人ではないのか。

しかしながら、Laser光線を天へ目掛けて発する人間の罪深さに対して
それを哀しむ存在に思ひを馳せることもなく、
今日も人間はLaser光線を天目掛けて発して興じてゐる馬鹿者なのだ。



矛盾は豊潤

此の世は不合理故に矛盾は豊潤で有り、
矛盾の棲処である渾沌を呑み込むべき存在として吾はある。
そもそも吾の存在を合理的と看做してゐる誤謬の徒は
最早その存在根拠を見失ひ、右往左往してゐるのが実情ではないのか。

渾沌を敢へて呑み込む不快を吾は堪へなくして、
誰が此の世界を支へるといふのか。
既にアトラスは消滅してからいったい何年経つことか。
既に玄武が此の世から消滅して何年経つことか。

既に神話の世界に、つまり、黄金時代に幕を閉ぢてしまったこの時代で、
敢へて生きてゆくには、世界はどうあっても己の双肩で支へるしかないのだ。

そんな過酷な状況を知ってか知らずか、
現存在は、相変はらず旧態依然の考へ方をしていて、其処に新しい発想の芽生えはない。
唯、世界が電脳化されゆくので、それに対応するので精一杯なのだ。

其処に夥しい矛盾が横たはってゐるのであるが、
その矛盾に真正面からぶつかる勇士は未だ出現せず。

嗚呼と、嘆くことは誰にでも出来るのであるが、
誰も矛盾に豊潤なものを見出す真正直な輩は、
いったい此の世に現はれることが可能なのか。

矛盾にこそ不合理である世界の根拠が隠されてゐて、
矛盾を取り上げない論理の浅はかさは、
言はずもがなであるが、
矛盾を無視する言説にはもううんざりなのだ。
その上っ面だけ辻褄が合っているやうに見せかける論理の誤謬は、
誰かが言挙げしなければならない。

これまでの論理で受け止めることが出来なかった此の世界を
受け止めることが可能なのは、矛盾を矛盾として言祝ぐことしかあるまい。

――だが、矛盾を嫌ふ本能は、如何とも出来ず、矛盾を前にして、吾なる存在は其処に渾沌しか見られずに、其処に存在の糸口がごろごろと転がってゐることを理解出来ぬであらう。



独断的存在論私論 二

錐揉み状に此の世にばっくりと大口を開けたパスカルの深淵に落ち行く吾は、
果たせる哉、底無しの中を何時までも自由落下し、
それは何時しか浮遊感とも混濁し、
吾が果たして落ちてゐるのか浮遊してゐるか最早己では解らなくなってゐるのだ。

この曖昧な感覚に不快を覚える吾は、
徹底的に落下の感覚を意識するのであるが、
しかし、私の軀体はどうあっても浮遊してゐると内臓から感じるのだ。
自由落下が浮遊感を齎すのは、しかしながら、余りに自然な事で
自由落下してゐる吾は、その錯覚を真実と看做してしまひ、
真実を目隠しするのだ。
しかし、その錯覚してゐる事こそが真実であり、
己の感覚に反する事を意識し、それをして認識とするのは吾には
余りにも酷と言ふものだらう。
認識といふものは、そもそも曖昧で、錯覚塗(まみ)れのものでしかないのだ。

錯覚を錯覚と指摘したところで、
それが錯覚だと思ひなすには吾は余りにも未完成なのだ。
そして、未完成故に時間は流れ、
その時間には固有時といふ小さな小さな小さなカルマン渦が生じる。
未完成が完璧を欣求する事で時間が流れ、
固有時の寿命は現存在の寿命にぴたりと重なるのだ。

世界が完璧を欣求するをして諸行無常とする吾は、
森羅万象が欣求するものこそ、詰まる所、悦楽の死んだ世界なのかもしれぬとも思ふのだ。
死の周りをぐるぐる回る吾の思考癖は止まるところを知らず、
死を求めて彷徨ひ歩くのを已めやしない。
生者にとって、しかしながら、死こそが生の源泉であり、
それでこそ、生を心底味はふ肝であり、
死あっての生でしかないとの諦念が吾の脳裏の片隅にはある。

さうして吾の存在とは何処まで行っても独断的にならざるを得ず
独断的でない存在論はそもそも成り立つ筈がないのだ。
それは、至極当然のことで、世界が存在の、念が宿る存在の数だけ存在し、
それらは全てが独断的な世界なのだ。
しかし、独断的と言ふ事を前面に出す事はなく、
他の無限の世界と摺り合はせをしながら、
吾の独断的な世界を矯正してゐるに過ぎぬのだ。
それ故に吾は不自由を感じ、吾の存在を肯定する事は恥辱でしかないのだ。

吾が吾に思ふその恥辱は、屈辱とも重なって
非常に根深い嫌悪感を吾に齎す。

――それでも吾は生きるのだらう。さうぢゃなきゃ、吾は恥ずかしくて生きちゃゐないだらうが。恥辱があってこその吾の存在の証拠なのさ。ほら、吾が陽炎のやうにゆらゆらと揺れ初めてゐるぜ。穴があったら入りたいんだらう。へっへっ。下らない。



寄生虫

宿主を殺す寄生虫の存在とは自死を望むものになんと似てゐることか。
殆どの寄生虫は宿主を殺さずに宿主の内部で生を満喫してゐる筈だ。
ところが、そんな寄生虫の中で、自らの存在があることで
作品名:闇へ堕ちろ 作家名:積 緋露雪