闇へ堕ちろ
己の存在は「偶然」に生まれ、「偶然」死すと言ふのであれば、
生死を超越する存在をそれは示唆してゐるに過ぎぬ。
全てはギリシャ悲劇のやうに「必然」とするならば、
神の存在なんぞ必要なくなり、
基督は磔刑から永劫に開放され、
現存在は現存在のみで自立する存在となるに違ひないのだ。
――此の世は必然でなければ到底眼前で起きてゐる凄惨な悲劇を受け容れることは不可能なのだ。
――何故?
と、この下らぬ自問自答に聞き耳を欹てて、
ぢっと聞いてゐる存在が無際限にゐるのを繊細な存在は既に気付いてゐる筈だ。
此の世は全てにおいて必然でなければ、
どうしてその余りに不合理な有様を受け容れると言ふのか。
此の世は不合理であることは「必然」で、
また、無残に生き物が死んでゆくのも必然なのだ。
偶然は必然を受け容れられぬ者達の断末魔の叫びでしかない。
――嗚呼、偶然撮られたフィルムやデジタルビデオで撮られた「偶然」な出来事も
それは撮られた瞬間に既に「必然」へと変化してゐることを何故、誰も声を上げぬのか。
念がうようよ犇めいてゐるぜ。
気持ちが悪いほどに念は存在にその体軀を押しつけ、
ぬめっとしたその感触を幽かに残して、
――くっくっくっ。
と嗤ってゐるのだ。
此の世を合理的に語るならば、
実念論こそそれに最も相応しいと言ふと、
誰もが指差し嗤ふのみながら、
その実、誰も実念論を否定出来ぬのだ。
独断的存在論私論
もしかしたならば高村光太郎の言葉だったかも知れぬが、
「私の前に道はなく、私の後には道がある」
といふやうな内容の言葉に、一時期惑はされてゐたが、
去来現(こらいげん)が因果律を持つのは、
現在のみといふことを知ってしまった後、
過去と未来は混濁してゐて、渾沌としてゐるのを
無理矢理私の五蘊場が因果律の筋を通してゐるだけだったのだ。
此の世は、まず、渾沌としてゐて、
秩序が表はれるのは、偏に私の存在によるのだ。
とはいへ、世界にとって私の存在なんぞどうでもよく、
その狭間で、現在に留まれ置かれ続ける運命の私は
無理矢理に世界に秩序を当て嵌めて
やうやっと私の存在の居心地の悪さを遣り過ごすのみの私は、
絶えず存在に押し潰される危ふさにあることを意識しなければ、一時も生き残れぬ。
――科学は?
といふ自問を発する私の胸奥に棲む異形の吾は、
――ふっふっふっ。
と嘲笑するのだ。
それは、科学者は世界の癖、つまり、法則を求めて厖大な研究を行ってゐるのだが、
世界に癖を与へてゐるのは偏に私が此の世に存在するからに過ぎぬのだ。
私が存在しなければ、世界は相変はらず渾沌のままで、
それで世界は満足なのだ。
世界に無理矢理秩序を押しつける現存在は、
終始己のことが可愛くて仕方がないために、
さうしてゐるに過ぎぬ。
そして、私の存在は何時も独断的なのが「先験的」であり、
独断的でない私なんぞはそもそも存在する価値すらないのだ。
だか、しかし、世界は渾沌としてゐる故に何でも慈悲深く受け容れるため
どんな存在も此の世に現れる蓋然性を残してゐる。
つまり、何ものも存在する事を拒否せずに受け容れる度量がある故に
世界は世界なのだ。
そして、その世界も己に不満故に、諸行無常の中に森羅万象を置き、
時を移ろはせては「完全な」世界を欣求して、
一時も変化することを已めぬ。
その変化に法則を見出した現存在は
今や無機物で出来た人工知能といふ厖大な情報を瞬時に処理する論理の束を生み出して、厖大な情報を高速計算しては世界の「予測」を始めてゐるが、
その因果律は、果たせる哉、現時点では世界の全事象の予測は不可能で、
しかしながら、現存在の欲は強く、
未来予測を行ふ為の厖大な情報の解析の正確さを競ひ合ってゐる。
そんな中で、現存在は独り現在から取り残されゆく哀しさに襲はれて、
絶えず未来を高速計算してゐる人工知能に敗北しては、
――えへへっ。
と嗤ふのだ。
それもまた諸行無常の常であり、
へっ、時間の流れ方は果たして変化するのか
それのみを見たくて現存在は何時までも現在に存在する。
つまり、存在は存在である限り独断的に此の世に存在するが、
それは世界の逆鱗に触れるために修正を余儀なくされ、
諸行無常の渾沌に呑み込まれるのが関の山。
――嗚呼、錐揉み状に落ち行く其処は、闇に没して心安まる黄泉国か……
剔抉(てっけつ)してみたが
興味本位で《吾》を剔抉してみたが、
抉り取られたものは虚でしかなかった。
それは当然の事、
《吾》がさう易易と私に囚はれ物に為る筈もなく
その摩訶不思議な《吾》をして
私が私として此の世にあるその礎が、
理解可能なものの筈はない。
夢幻空花(むげんくうげ)なる此の世の様相は、
平家物語の
「諸行無常の鐘が鳴る」
といふ言葉がぴったりと来、
そんな世に生きる《吾》といふ化け物を
包摂する私と言ふ存在は、
興味本位で剔抉したくらゐで
その正体を現はす筈も無し。
辺りには能の調べが流れ出し、
益益諸行無常の哀しみに
私は囚はれるのだ。
「がらんどう」
さう、私の内部は一言で言い切るならばがらんどう。
そのがらんどうに五蘊場、つまり、脳と言ふ構造をしたがらんどうは
魑魅魍魎が犇めき合ふ異世界の有様をしてゐる筈で、
容れ物によって自在に姿を変へる《水》の如くに
異形の《吾》どもが輻輳してゐる様は、
将に《水》としか言ひやうがないのだ。
そのひとつを抓み上げて、
――お前は何やつ。
などと問ひ糺したところで、
そいつはにやりと醜悪な嗤ひを浮かべて、
あかんべえをするのみ。
さて、その魑魅魍魎は、
私の後ろの正面で嬉嬉としてゐて、
私がそいつの名を当てるのを待ってゐるのだが、
私はと言ふとそいつを名指せる言葉は持ってをらず、
唯、魑魅魍魎の異形の《吾》としてしか名指せぬのだ。
言葉で語れぬ物は、
則、その気配のみを漂はせて、
私の後ろの正面で、
戯れてゐるのだ。
――ちぇっ。
と舌打ちしたところで、
何にも変はる筈もなく、
そいつらが変幻自在にその姿を変へながら
諸行無常を楽しんでゐるに違ひない。
剔抉したその《吾》は、
虚でしかなかったのだが、
しかし、その虚は虚体の端緒となり、
やがて《杳体》へと変化する筈なのだ。
虚体は勿論、埴谷雄高の曰くところの物で、
《杳体》は私が《吾》のそこはかとなく漠然と不気味な様を
《杳体》と名付けた物で、
《杳体》は、虚体をも呑み込む
名状し難き《吾》を引っ捕らへる《罠》に過ぎぬのであるが、
今以て《杳体》といふ《罠》に引っ掛かる莫迦な《吾》はゐないのである。
しかし、私は何時までも釣り人の如く《杳体》といふ言葉による餌で、
見事に《吾》を釣り上げることが可能なのか、
全く見通せぬのだが、
その蓋然性はしかし、零ではない筈だ。
さうして仮初めにも《吾》を釣り上げられたならば、
私はゆっくりとそいつを料理して喰らふ事で
本望を遂げられる筈だ。
それまでは、此の魑魅魍魎の異形の《吾》の気配のみと対峙しながら、
すっくと私は此の世に屹立するのだ。
立ち姿
ぴたりと立ち止まったならば、
もう動くことは為らない。