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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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闇へ堕ちろ

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其処にあるぴんと張り詰めた緊迫感にしかと身を引き締めて対峙するには
端座することが他者に対する最大の礼儀なのだ。
それすら出来ぬと言ふのであれば、
俺は俺であるその根拠を失って
茫然自失の態で俺は俺の内部を罵倒するのみ。

端座せぬその居心地の悪さと言ったならば、
跋が悪いといふ言葉があるやうに
他者を前にした緊迫感に押し潰されるだけなのだ。
他者に呑まれる俺のその無様な様は、
端座することで、つまり、礼儀を守ることでやっと取り繕へる。

さうして俺が俺である自覚を持てる俺は、
端座して一礼し、他者に対して礼儀を尽くす。
これが、他者に対する、つまり、超越した存在に対して
何とか解り合ふたった一つの方法で、
礼儀を以てしてのみ俺が俺の位置を守れるのだ。



思弁的超越論私論

気配すらをも潜めし《それ》は、
自らの意思、否、《念》において
「先験的」に《吾》は《存在》すると自覚してゐて、
カント曰くところの「物自体」は
全てかっと目を開き、
世界を睥睨してゐる《存在》として
此の世界に確かにゐるのだ。

――世界が本質に先立つ?

馬鹿な、
世界にとって《吾》の《存在》なんぞ、
どうでもよく、
《吾》が死なうが生きようが窮極的には知ったことではなく、
全く的外れなそんな問ひに対して
「物自体」は
――ひっひっひっ。
と、嘲笑してゐる筈である。

思弁的超越論において、
《吾》の問題も《他》の問題も
幽霊の《存在》を認識するかしないかの違ひでしかなく、
そんな幽霊のやうな世界に対して、

――世界が本質に先立つ。

などと言ふ馬鹿げた問ひを発する此の《吾》は、
まだ、これまで一度も「私」とか「主体」とか己のことを呼んだことはなく、
世界自体が己の有り様に困惑してゐるこの現在といふ時の中で、
過去と未来は反転に反転を繰り返し、
既に未来と過去は渾沌としてゐるのが
世界の自同律の本源であり、
唯、現在のみにおいて因果律は辛うじて成り立つのである。

――何、主体と客体の問題は?

と。これこそ笑止千万。
何故なら、そもそも主体と客体の腑分けの仕方が間違ひの元であり、
世界はそんなに単純に出来てゐないのだ。

また、主体絶対主義のやうな主体と客体の位置付けが間違ひであり、
主体は羸弱な存在でしかなく、
此の世界に毅然として屹立するが如くに主体は組成されてゐないのだ。

主体にとって何よりも先立つのは感情であり、
それは意識とか認識とか思考とか考へとかでは決してない。
つまり、デカルトは間違ってゐるに違ひなく、
デカルトに対して否と言へない現代人は、
既に思索において過去の哲人の足下にも及ばず、
cogito,ergo sumに対して
平伏するのみのその面従腹背の様は、
既に世界によって見破られてゐて、
何とも無様で、そして哀れなのである。

「先験的」に世界も己に対して疑念を抱いてゐて
それ故に時は流れ、世界においてすら自己同一は決してやって来ないのだ。

況や「私」においてやって来る筈がない。

――嗚呼、哀しき哉、世界を受容することに骨を折る《吾》が、毎夜毎夜、《吾》を欣求しながら彷徨ひ歩くのは、幽霊だと言って嗤ひ飛ばすことは何を隠さう、《吾》に対して無礼でしかないのだ。



渇仰する

何をそんなに渇仰する必要があると言ふのか。
既に俺はかうして此の世に存在し、
そもそも俺は己の存在に対して十全とし、
ふっ、それよりも恬然と此の世を満喫してゐるのに、
何を渇仰するものがあると言ふのか。

ところが、一度、己に対して疑念が生じると、
疑心暗鬼に陥り、
暗中模索に試行錯誤と、
闇の中を手探りで一歩一歩そろりそろりと歩くやうにして
俺は俺に対しての不信感を追ひ払ふことが出来ずに、
何時も俺のことを嘲笑するのだ。

これはこれで楽しくもあるのだが、
この自己矛盾には既に辟易してゐて、
常に俺は、俺を嘲笑する側の俺に為れないかと
その存在の有り様を渇仰するのだ。

俺が渇仰する俺とは、
さて、それは此の世において信用出来る存在として
つまり、基督や釈迦牟尼仏陀のやうな存在として
今生の苦を一身に受けながら、
それでゐて恬然とし、
何処吹く風かと言ふやうに
俺の存在なんぞにかまける暇があったなら、
他の苦に共感し、それを取り除くことを使命として
身を粉にして世界に尽くす無私の状態こそが
俺の渇仰して已まぬ存在の正体かと言へば、
そんなことは全くなく、
それとは裏腹に、
基督も釈迦牟尼仏陀も、
人間の業からの開放を
つまり、現代においても信仰の対象として此の世に縛り付けてゐる
その浅ましき人間の業からの開放を切に願ってゐるのだ。

それでは人間は範とする人間像が描けぬと、
この二千年余りの間、
あり得べき人間の有り様を
全く描くことなく、
全て、基督や釈迦牟尼仏陀などにおっ着せて、
自身は旅の恥はかきすてとの慣用句の如く、
今生を「旅」に模して恥ずべきことばかりを行ってゐるその無様な姿を
「俺は俺だ」の一言に全て集約して、
満足してゐる醜いその醜態は、
何をか況やである。

人間は今生において、
基督や釈迦牟尼仏陀などの先人の足跡を軽軽と乗り越えた
存在を渇仰せずして、何を生きるのか。

それこそ、恥じ入る外ない人生を生きてゐたといった趣旨の言葉を
此の世に書き残して逝った太宰治を超えるものとして
現在を生きるものは誰もが渇仰するのが、
人の道と言ふものではないのか。
しかし、

――へっ、 何を馬鹿なことをほざいてゐる。

と、そんなことなど全く信じてをらぬ俺はそれに対して半畳を入れるのだ。
当然のこと、現在に生きる俺も尚、過去に生きた存在を範として生きるのを由としてゐるのだ。

それもこれも過去と未来は何時反転してもいい存在で、
此の世に距離が生じるといふことは、
既に過去世であり、
しかし、過去世の中に目的地が必ず生じる筈で、
さうなると、距離は過去世を表はさずにそれは反転して未来世に変はるのだ。

この時間のTrick(トリック)に騙されることなく、
未来と過去が渾然一体と化した此の世の有り様に
戸惑ふことは許されず、
俺は現在に取り残される形で、単独者として存在するのだ。
その単独者は、存在を渇仰し、
さうして何かにやうやっと変化するその端緒にあることに身震ひするのだ。



実念論

――ほら、其処にも念が彷徨ってゐる。

さうなのだ。此の世には「先験的」に念が存在してゐて、
何時存在物へと転生するかその時期を見計らってゐるのだ。

――初めに念ありき。

これが、此の世の誕生を担保する唯一の言なのだ。

――何を馬鹿なことを。

と、誰もが半畳を入れるのだが、
実念論はそんな半畳などに全くびくともせずに、
此の世における所与のものとして実在してゐるかのやうに必ず存在してゐる。
誰も、実念論に反論出来ぬのだ。

――当然だらう。そんな馬鹿な話を信用する輩なんぞ此の世にゐやしない。

本当だらうか。
では何故、生物は死ぬのだ。何故、生物は生まれるのか。
生死の因果すら説明出来ぬ論理的な存在者どもは一体何なのか。
その生死を「偶然」に帰す馬鹿な論理は今更言ふに及ばず、
作品名:闇へ堕ちろ 作家名:積 緋露雪