闇へ堕ちろ
将にそれは清水寺から飛び降りる覚悟がゐるのだ。
さう、存在とは覚悟の別称に違ひない。
さうまでして焦燥するものとは、俺を回収して
つまり、無限にばらけてしまった俺を一度「一」に収束させて
俺は俺と言ひ切れる俺を無限から奪還する事なのだ。
何思ふ
ぼんやりと川岸に座って水面を見てゐると
心が平穏になるのは、揺らぎ故のことだらうが、
その水面の波紋がこの宇宙の真理に通じてゐるからかもしれぬ。
水面には絶えず波が生滅し、
その儚さが魅力の一つとなってゐるのは間違ひなく、
それが森羅万象の来し方行く末と重なり、
見てゐて全く飽きないのだ。
それは量子ゆらぎを連想させ、
また、此の世が波で出来てゐる事をも思はせる。
固体が液体より軽いと言ふ水でしかないこの特異な性質が
生命の創出に寄与したことに原点回帰を見てしまふこの先入見は、
或る憧憬とともに羊水の中で十月十日の間、
浮遊してゐた時の記憶が甦るのか
水面の柔和な面影には
何時も懐かしいと言ふ憧憬が伴ふのだ。
何となれば、それは断ち切るべきなのか。
この憧憬が曲者なのだらう。
還るべき処があると言ふ事は
覚悟が足りないからに外ならない。
さう、此の不合理の世の中を生きるには
絶望する俺を受容する覚悟がゐるのだ。
此の世に屹立するべく存在する俺は、
しかし、何時も後ろ向きで
自嘲する事にをかしさを覚え
さうやってお茶を濁して生きてきたのか。
何とも性根が座ってをらず、
世界に押し潰される杞憂にびくびくしてゐる臆病者の俺は、
それを是として肯定する馬鹿者なのだ。
此の世界を見る見者になり得べくある筈が、
それになり得なかった落ちこぼれの俺を、
開き直って肯定する愚劣を
何食はぬ顔で行へる俺は、
当然の事、恥辱を感ぜずには一時もゐられぬ後ろめたさに苛まれ、
此の感情は存在の根本に根ざしたもので、
これは先天的なものなのかもしれぬと感服するのだ。
では、そもそも存在とは存在を肯定するものなのか。
これもまた愚問でしかないのであるが、
かう問ふしか出来ない俺は、
存在そのものに猜疑の目で見てゐるのだ。
かうなってしまふと存在の吹き溜まりに屯(たむろ)する存在といふ
拘泥に嵌まり込み
一生其処から抜け出られず、
また、その環境が温いのだ。
朔風に頰を叩かれる中で、
そんな憧憬を捨てるのさ、
と、言へる俺になりたいと思ひつつも、
一方で、さうなってしまったならば、
生きてゐる価値もないのぢゃないかと思ふ俺もまたゐるのである。
決して同じ相貌を見せぬ此の水面に
吾、何思ふのか。
また、此の水面は何を思ふのか。
森羅万象は何思ふ。
その時、ぽちゃりと、鯉が飛び跳ねたのだ。
波紋のやうに
ゆらゆらと広がりゆく水面の波紋は
その姿を失はず無限遠まで広がねばならぬ。
それなくしては、俺が俺である事が根底から覆されてしまふのだ。
何故なら、波紋が消滅してしまったならば、
それはものの消滅を、宇宙の消滅を意味し、
そんな状況下で俺なんぞが存在出来る訳がないぢゃないか。
波紋は消滅するから美しいと異を唱へるものは、
未だに存在に関して楽観的過ぎるのだ。
弱弱しく見える波紋こそ、
永続して此の世の涯まで消える事なく
波を存続させねば、
水よりも羸弱(るいじゃく)な俺なんぞの存在など此の世に問ふ尊大は許されぬのだ。
ゆらゆらとゆっくりと広がってゆく波紋よ。
お前こそが存在を存在として此の世に表象するその根本なのだ。
例へば何ものも透過してしまふ素粒子は独り孤独で、
つまり、何ものにもぶつかる機会がなく、
とことん孤独なのだ。
それ故に、素粒子は絶えざる自己との対話の中に身を置いて、
あるものは一瞬で此の世からその姿を消し、
あるものは永劫に亙って、否、無限に向かって飛翔するのだ。
素粒子もまた、波紋として此の世に広がる。
それなればこそ、水面上の波紋は未来永劫消えてはならぬ。
それが俺が俺として此の世に存在出来る根拠となり、
波紋は偏に存在に付髄する属性になり得るのだ。
例へば重力は波として存在を存在たらしめるべく絶えず波紋を表出させる。
此の世の一表象の典型が波紋なのだ。
その典型を失ふ不合理において、俺をして何を俺と言へばいいのか。
つまり、波紋の消失は迷宮の中に俺を追ひやる。
哀しい哉、水よりも羸弱な俺は
不純な水として此の世に屹立し、
水の塊として此の大地に立つしか出来ぬのだ。
ゆらゆらと今も尚広がりゆく眼前の波紋は
では、何故に生じたのか。
それは、水中から魚が跳ねたからに過ぎぬのだ。
それでは此の何次元かは知らぬ世界に波紋を広げるものは、
此の世の次元とは別次元の何かに違ひない。
それをこれまでは「神」と呼んでゐたものなのかもしれぬが、
今は何かの物体として、此の世に存在するかもしれぬ「もの」として
把捉可能な「もの」へと格下げになってしまったのだらうか。
そんな馬鹿な事をつらつらと考へながら、
今にも消えさうな水面の波紋を心地よく見入ってゐる俺は、
此の世の終焉に思ひを馳せながら
河岸に立ってゐる俺を実感してゐるのだ。
仮に此の世に神がゐるならば、
此の世をもう一度攪拌し、
それを握り潰して何処へかと投げ飛ばし、
Big bangをもう一度起こして欲しいと言ふ願望もなくはないが、
もう一度此の世を創り直したところで、
俺に躓く俺はどうあっても存在する筈だ。
詰まる所、絶望しない俺なんぞ
生存する価値もありゃしないのさ。
猫のやうな空
猫のやうな空に歩を進める魚は、
やがて来る嵐を綿飴のやうに食らふのだらう。
そして、漁師は空を泳ぐ魚を捕らへて剔抉し、
腸(はらわた)を取って
月光で焼き切る。
ほんわかと首を絞める猫のやうな空は、
身軽に人間の影に張り付き、
その鋭き牙で存在を噛み切る。
さうして空から降ってきた人間は
夢の中で、溺れ死ぬ。
機械の轟音が響く静かな夜に、
首を吊った奇妙な果実、つまり、人間は
ビリー・ホリデイのレコードをかけて
黒光りし、
絶望の慟哭を月に向かって上げたのだ。
陰(いん)の月には兎が棲むと言ふが、
希望が屈折した月光は
絶望がよく映え、
希望を袋小路へと追ひ込むのだ。
直線が曲線な直接的な世界は
猫のやうな空を怒らせて、
毛を逆立てた空に呑み込まれる。
何もかもが憂愁の中に身を投じ、
亡霊が猫のやうな空の下、無数に彷徨ひ歩く。
生と死が入れ替わる此の世にて、
外部に飛び出た魂達は、
彷徨ひ歩く亡霊どもの餌として
死を全うするのだ。
生は空を歩きながら、
そこら中が穴凹だらけの空に
いちいち歓喜する。
絶望が一際輝くその空で、
猫の目が暗闇で妖しく光るやうに
星星が黒く輝く。
何がさうさせたのか、
月食のやうに黒光りする太陽は、
今はまだ輝くことを知らず、
腐敗Gasを発するのみ。
死が蔽ふ此の世界で
月光のみがくすんだ光を此の世に届け、
空の魚はきらりとその鱗を輝かせ、
星を喰らっては群れるのだ。
逆立ちする事で、生は死からずっと逃げてゐたが、
何時しか、生のゐる場所はなくなってゐた。
それは、そして、余りにも自明の事であった。
悔し涙