闇へ堕ちろ
と、宣言してみるのであるが、しかし、時間がそれを許さぬ。
敢へて言ふなれば、時間が一次形式である理由は何処にもなく、
俺は時間こそが∞次元を持ったものとして把捉するのであった。
つまり、それは森羅万象こそが時間であって、
変容を、例へば時計で計測する「経過時間」として数値化する馬鹿はせずに、
無限形式の時間の相の下で森羅万象が生滅する事を全的に受容するといふ
時間の解放を試みるのであるが、
それは現時点では、悉く失敗してゐる。
この宵闇が近づく薄明の中、
幻影の華を具現化する事に腐心した彼女は、
赤赤とした満月の色の口紅を塗ってゐたのだ。
月にその性が連関してゐる女の妖しさは、
薄明の中にこそ映えるもので、
この赤赤とした相貌の満月は、
妖しく猥褻な輝きを放ち、
男を誑かし始める。
それはそれで善しとする俺は、
女を求めて薄明の幻影の中を彷徨ふ。
其処にこそ時間の綾があると看做す俺は、
性交に現を抜かし、
それでも時間の尻尾を捕まへ損ねる。
ざまあないと、自嘲してみるのであるが、
それは時間の方も同じで、
あかんべを俺にして見せて、
哄笑するのだ。
その一筋縄ではゆかぬ時間の把捉は
しかし、俺の手には余り、
そもそも抽象的なものが苦手な俺は、
漠然と「世界を握り潰す」と言ふ観念を抱きつつ、
時間の正体を探らうとしてみるのである。
しかしながら、時間と言ふものは逃げ足が速く、
俺に「現在」のみを残してはさっさと逃げ去り、
その逃げ足に俺は決して追ひ付けぬのだ。
哀しい哉、俺は現在にしか存在出来ず、
過去相、未来相は、五蘊場の中にのみ表象可能で、
また、未来に対する蓋然性は、
絶えず現在を揺籃するのだ。
つまり、俺が留め置かれる現在は、絶えず揺れ動き、それが定まることはなく、
しかし、現在が過去となり、五蘊場の中のみで表象可能な状況にあっても、
過去相もまた、無数の解釈が可能で、
その蓋然性は未来相と同じなのだ。
しかし、時間は非可逆的と言はれてゐるが
果たして本当にさうなのかは、
此の世が終末を迎へてみなければ解らぬもので、
多分、死んだもの達の念は未来永劫消滅することなく、
此の世の終はりを
瞼に焼き付けるべく、
ぢっと息を潜め、
薄明の幻影の中で蹲ってゐるに違ひない。
あの赤赤とした満月の色は死んだもの達の念の色なのかもしれず、
その艶やかな色合ひは、
男を誑かし、
女をも誑かすのだ。
憂愁に惹かれて
どうしようもなく憂愁に誘はれる時があるのだが、
それもまた、俺に与へられた特権と思ってどっぷりとその憂愁に浸る。
その時に、
――出口なし。
と、観念する俺は、唯、憂愁の為されるがままに任せて
時間を浪費するその贅沢を味はふ。
その時間は、名状し難き極上の時間で、
それを一度味はってしまふと、もう抜け出せないのだ。
そして、その時、唯、俺の前にあるのは「自死」といふ言葉で、
死を弄びながら、堂堂巡りに埋没す。
何時まで続くのか解らぬその堂堂巡りは、
俺と言ふ存在もまた、
渦状の時間により支配されてゐると思い為しながら、
そして、それが一つの時間の解なのではなからうかと
独り合点し、
そのぐるぐる回る時間の軌跡を追ふのだ。
それが、極上の時間で、死を心棒に回る時間は、
まるで独楽のやう。
つまり、俺にもGyroscopeが埋め込まれてゐて、
その芯は真っ直ぐに死を指し、
それと直角を為して生が巡る。
死と生はぴたりと直角でなければ、
そのGyroscopeは永くは回らず、
ことりと斃れて死屍累累の死の中に
埋もれてゆくのだ。
況や能く憂愁の中に没す事能はず、
唯、藻掻く俺のみっともない無様な様が表出す。
嗚呼、何をして俺は俺の憂愁を手懐ければいいのか。
就中(なかんづく)、この憂愁は俺を死への憧憬を誘ふ。
俺が生まれる前に時間を戻さうと
無駄な足掻きをしながら、
無力な俺をとことん知る時間こそ、
俺が待ち望んでゐた時間の筈なのだ。
この俺が死の周りを巡るといふ途轍もなく曖昧な時間こそが
無限の相を持つ時間に相応しい。
それ故に俺は、この憂愁に惹かれゆく奈落の時間こそが
愛しき時間で、
さうして、俺は、また、今日も倦みながら、
暗中の中の手探り状態の俺を心底楽しむのだ。
それには奈落の闇こそが最も相応しく、
この憂愁に沈む重き俺の意識の拠処には
腐臭漂ふ死が最も似合ふのだ。
焦燥する魂
何をするでもなく、
忽然と俺を襲ふこの焦燥感は、
絶えず自虐する俺が、恰も懸崖に立たされた無様さに対して
密かに独りずっと嗤ってゐる俺を見出してしまったからに違ひなく、
其処に快楽を見出す俺は、果たせる哉、Masochistには違ひないのである。
未来永劫嬲られ続けるといふ地獄の責め苦が仮に存在するのであれば、
正しく俺はその責め苦を受けてゐる極悪人なのである。
否、違ふ、俺は極悪人になんかこれっぽっちも為れやしない侏儒。
それでもこの焦燥感は油断をしてゐると虚を衝いて襲ひかかり、
それは見事なまでに全く容赦がないのだ。
何に対して焦がれてゐると言ふのだらうか。
何をして俺は燥(かわ)いてゐるのだらうか。
これが将に愚問なのだ。
そんなに事は言ふまでもなく、
己の存在に対する不安、つまり、存在に対する焦燥でしかないのだ。
それを問ふ馬鹿はさっさと已めればいいのであるが、
どうしても問はずにゐられぬ俺は、
余程の暇人であり、
ぐうたらでしかないのだ。
其処で嗤ってゐる奴が俺であり、
彼処で嗤ってゐる奴も俺なのだ。
「Crazyって褒め言葉よ」
と、言ってゐた人を知ってゐるが、
将に俺は病的なまでに
俺を虐めなければ気が済まぬのだ。
俺は俺を虐めるのは天才的なまでに上手く、
そればかりを思ひながら生を繋いでゐた。
つまり、俺の起動力とは俺が俺を自虐する時に発する呻吟であり、
哀しむ声なのだ。
艱難辛苦は大概経験したが、
そんな事は俺が俺を自虐する事に比べれば、
全く取るに取らないものでしかなく、
現実の艱難辛苦は己が己を裏切るそれに比べれば、
何でもないのだ。
しかし、幾ら強がりを言っても
俺の敵が俺と言ふのはどうも居心地が悪いもので、
俺が俺である事はばつが悪くて仕方がないのも事実で、
これを埴谷雄高は「自同律の不快」と呼び、
俺もまた、俺である事が不快で仕方がないのだ。
例へばそれは、
――俺が、
と、言った刹那に感ぜざるを得ぬ恥じらひにも似た感覚、
つまり、俺は俺である事が恥辱なのだ。
俺の存在自体が不快なのだ。
その為、切ない切ないと何時も感じる俺を、
自虐して嗤ふ俺がゐて、
その俺をまた自虐する俺がゐて、
と、これが蜿蜒と続くのだ。異形の吾が無数に存在する苦痛は、
俺の許容出来る能力を遙かに超えてゐて、
俺は絶えず俺が食み出してゐる俺を
存立させなければならぬと言ふ苦悶を抱へ込まざるを得ぬのだ。
何にせよ、俺が俺と言ふ時は、
恥辱を感じて、穴に入りたく候なのだ。
それならば、俺は俺と言った時、
ぶるぶると打ち震へる俺をして此の世に屹立させるべく、
針の筵の上に座る度胸がなくてはならぬ。