闇へ堕ちろ
――嗚呼、ミノタウロスの眷属よ、お前は、ちぇっ、お前は今生の中でも最も幸せなものなのかもしれぬ。世界なんぞに現を抜かす無駄な時間を浪費することなく、ちぇっ、馬鹿な。無駄な時間にこそに真理は隠れてゐるものなのさ。お前ほど哀しい存在ほど今生にゐやしなかったのだ。
軛を付けた私は
いつからこんなに足取りが重くなったのか。
惚けて空を流れる雲に見とれてゐたためだらうか。
それにしても雲はいい。
法則に縛られてゐるにもかかはらず、自在なのだ。
雲はみるみるうちにその姿を変へ、
今生のものとは言ひ難いほどの美しさを帯びた雲は、
私の思ひも引き連れて、何処へか私の夢想を運びゆく。
さうして雲をずっと眺めてゐたら、
どうやら私には軛が付けられたやうなのだ。
つまり、それは私が雲を眺めてゐると何処へかに行ってしまふのを
何かが恐れてゐるのかもしれぬのだ。
しかし、雲は実にいい。
雲を眺めてゐるだけで私は心が躍るのだ。
嗚呼、単なる水蒸気の塊に過ぎない雲に何故にこんなに心が惑はされるのか。
それは一つとして同じ姿をしない雲に「多様」を見てゐるからなのか。
しかし、それは間違ひなのかもしれぬ。
雲は雲なりに不自由を感じてゐるに違ひなく、
自在である筈はない。
此の世で自在であるのは神仏以外あり得ぬのだ。
ふっ、もしかしたならば、先験的に私はさう思はされてゐるのかもしれぬ。
果たして神仏は此の世に存在するのか。
仮に不在ならば、何が此の世の法則を決めてゐるのか。
森羅万象の癖が此の世の法則と呼ばれるものなのだらうか。
今生に生まれ落ちてしまったものは、
取り留めなく宇宙を漠然と考へてそれを観念に変へ、
専門家の言ふやうな宇宙観を知らずに身に付けてゐるが、
果たしてその宇宙観は私が承認したものなのだらうか。
この軛を私は受容しなければ、
私は、私の魂魄が憧れ出てしまふ太古のものの捉へ方に執着し、
またもや私は世界に馬鹿にされるのだ。
それはそれで構はぬのであるが、
しかし、私にとってそれは屈辱として魂魄に刻まれるもの。
へっ、屈辱なくして、此の世に存在するものはあるのだらうか。
そもそも生まれることが屈辱ではないのか。
世界に、森羅万象に翻弄される生。
そして、宇宙を漠然としか捉へられる能力がない現存在は
物理法則にあくまで翻弄され続け、
さうして、何時しかことりと生を閉ぢるのだ。
太古より生は生老病死と言はれてきたが、
今も尚、その金言で生を余すことなく言ひ表はせた言葉はない。
つまり、現存在は二千年余り、
真理を新たに摑むに値する哲学を生み出してゐないのかもしれず、
更に言へば、現代が昔よりいいと言ふのはまやかしなのかもしれぬ。
それでは私は何を以てして生きていけばいいのかと言へば、
それがこの軛に外ならぬのだ。
生を受けしものは皆軛を付けてゐるのか。
空を眺める私はこの地に縛り付けられて
つまり、重力の軛から逃れられず、
また、逃れやうとせずに、
大地で生きる不条理。
吾ありて尚不合理窮まれり
嗚呼、雲よ、私を何処へか連れ出してくれぬのか。
憂愁の中で私は
布団の上にだらりと投げ出された女体を眺めるやうに
私は只管私の外部と内部の両睨みで睥睨してゐたのであるが、
もはや疲労困憊の私には鬱勃と憂愁が私の何処からか湧き出し始め、
そんな憂愁の中で私は腐敗し始めたのかもしれなかった。
既に私の内部は崩壊を始めてゐて、
その死体が永きに亙って私の内部に横たはり、
何の事はない、
私は私の内部に目眩ましを喰らはされてゐたに過ぎぬのだ。
さうして永きに亙って死体としてしか
もはや存在してゐなかった私の内部は、
私の知らぬ間に腐乱を始め、
気が付けば腐臭が私の内部に充満してゐたのである。
それが芳しかった時期もあった筈なのだが、
憂愁の中に落ち込んでしまった私にはその腐臭は
もはや堪へ得ぬ悪臭に変貌したのだ。
この憂愁の中にある私が正常なのかもしれず、
腐臭を腐臭として感じられる感性こそに私は私の根拠を求めたのであるが、
如何ともこの悪臭には悩まされる以外になかったのである。
私は私からの脱出を何度も試みたのであるが、
それはことごとく失敗に終はり、
さうして私は憂愁の中に投げ出されたのだ。
私からの脱出に倦み疲れた私は
この腐臭に我慢する外なく、
腐臭を腐臭と感じられる私こそが正常な私であった筈なのであるが、
そんな私はどうしても居心地が悪く
私が私である事が不快でならないのだ。
自同律の不快とそれを名付けた先人がゐたが、
その時その先人は自らの腐臭を嗅いでゐたかもしれなかったのだ。
この腐臭は、しかし、私が存在したその根拠であり、
腐臭が立ち籠めてゐる限り、私は死体とはいへ、
私は必ず存在してゐた事は間違ひなく、
それのみが私の安寧の根源なのだ。
哀しい哉、ゆっくりと時間は流れゆく中で私は、
ゆっくりと腐乱してゆく内部の私に鼻を抓みながらも
私は何とか此の世に存在するのだ。
「死体に口なし」とはいへ、
気付けば既に腐乱死体となってゐた内部の私は
腐臭と言ふ形でその存在を指し示す事でしか存在出来なかった私は、
哀しいのか、ただ、腐乱した私をぢっと眺めることは憚られ、
さうして倦み疲れた私は、内部の私から目を逸らす事しか出来なかったのだ。
憂愁の中で私は内部の私の甦生を全く行ふ事なく
唯、抛っておく事しか出来なかった。
雲を摑むやうにしてしか、結局、私は私に対峙出来なかったのだ。
つまりは、私は内部の私を既に見捨ててゐて
それが腐りきって消滅するので残された時間を
生きる事に精一杯で、
私が私に関はる事に既に倦み疲れてゐた私は
鬱勃と私の湧泉から湧き出す憂愁に
抱き抱へられるまま
悩ましげにしながら確かに存在してゐたと思ひたかったのかもしれぬ。
深い陥穽に墜ちたとは
それは何の前触れもなくやってきた。
それは黒子(ほくろ)と呼ぶのが相応しいのかもしれぬが、
この軀体に現はれた真っ黒な点は、その底が余りに深かったのだ。
その皮膚上に現はれた黒点は太陽の黒点にも似て、
強力な磁場で俺を揺すぶりながら、
俺の気配を吸ひ込み、
その黒点に墜ちた俺は
尚も俺を探しながら、
「へっへっ」と嗤ひながらまだ、落ち着いてゐたのは余りに楽観的だったのだ。
その黒子が仮に癌であったならば、慌てふためく筈の俺は、
それを承知の上で上っ面では癌であって欲しいと望んでゐて、
しかし、実際にその現実を突き付けられた途端、
魂魄が動揺し、顫動するのは解り切ってゐた。
とはいへ、俺は何を思ったのか、煙草を銜へて紫煙を呑み込み、
その紫煙の中に消えゆく俺の視界に溺れて、
さうして誤魔化す現実の先には醜悪極まりない現実ばかりが横たはり
その現実に絞め殺される思ひをしながら、
絶命する事ばかりが宿命と呼びかけて魂の動揺を抑へるのだ。
何を以てして俺は俺と言へるのかと、
永く俺を悩ませてゐた懊悩を
この際その縺れた俺が俺と言ふものを解きほぐしながら、
尚も俺は存在すると胸奥で叫ぶのだ。
その声が何かに届くのかと言はれれば全く不明なのであるが、