趣味が凌駕するバランス
ということになるのかも知れない。
それを考えれば、
「何も、また新しい魔球を開発する必要などない」
ということではないだろうか。
前述のように、年間、
「20打席がいいところ」
という対戦相手に、4割打たれたとしても、ヒット数は8本でしかない」
ということになるのだ。
他の選手には打たれていないので、魔球をウイニングショットにしている限りは、そんなに打たれるということはない。
だから、わざわざ、宣戦を離脱してまで、必至になって魔球を開発する必要などないといえるのではないか。
これが、いわゆる、
「熱血根性もの」
という
「スポーツバージョン」
といえるのではないだろうか?
そもそも、マンガなのである、
ストーリー性がなければ面白くないし、
「現実味がない」
という夢物語の方が、読む人も、興奮するし、何よりも、
「読者がそれを求めている」
ということである。
昭和であれば、
「現実的ではない」
という、そういう話がもてはやされた。
しかし、それが、昭和ではない時代に入ると、今度は、
「揚げ足を取る」
という人が増えてきて、
「今の話のようなものが生まれてくる」
ということになるであろう。
それが、
「昭和という時代の文化」
であり、平成以降は、
「冷めた考えの時代だ」
といってもいいかも知れない。
「冷めた」
というと、語弊があるかも知れない。
その冷めた考えで、
「昭和を罵る」
というのが、当時の平成になった時代、いわゆる、
「バブル崩壊」
という時代にマッチしていたのではないだろうか。
特に、この時代では、
「バブル崩壊」
というものが、
「神話の崩壊」
ということだっただけに、余計に、
「夢物語が通用しなくなった時代に突入した」
といってもいいだろう。
特に、
「銀行は潰れない」
と言われた神話が、
「バブル崩壊」
とともに、最初に出てきたということが問題だった。
もちろん、そこには、
「事業拡大すればするほど儲かる」
ということだったので、銀行もその時代の余勢を買って、
「もっとたくさん融資しましょう」
という。
「過剰融資」
というもので、儲けようとしていたのだった。
実際に、たくさん貸し付ければ、それだけ利子の分が儲けになるわけなので、謳歌るというのは当たり前だったのだ。
しかし、皆が、
「バブル時代が永遠だ」
と思っていたのであろうか。
確かに、
「盛者必衰」
ということはないと教わってきたはずなのに、肝心の時になって、誰もそのことに気づかないというのはありえないだろう。
分かっている人がいたのだろうが、一人の人が、いくら経済学者だとしても、
「永遠ではない」
といっても、あの時代の勢いを止めることはできないだろう。
それを考えると、
「下手に騒ぎ立てると、余計な混乱を招く」
ということになり、どうしようもない状態になるといっても過言ではない。
確かに、
「今の時代だから、何が悪かったのか?」
ということは、その後の検証で分かっているのだろうが、それでも、本当のことをどこまで皆が分かっているか?
ということを考えると、疑問符が残るのだ。
平成になり、
「夢まぼろしは、夢まぼろしでしかない」
ということが分かってくると、昭和の、
「スポーツ根性もの」
「熱血根性もの」
というものが滑稽であると言われるが、逆に冷静になって平成という時代を見ると、今度は、かつての昭和という時代が、
「古き良き時代」
ということで、
「新鮮ではないか?」
と見えてくるだろう。
やはり、昭和の本質を知らない人が社会の中心にいるという時代になってきたからだといえるのではないからであろうか?
親の本質
そんな時代において、
「父親が生きてきた時代が、どんなものだったのか?」
というものであった。
もちろん、父親も、その父親、すなわち、
「おじいさん」
から育てられたわけで、
「その教育方針がどういうものだったのか?」
というのは、正直分かるわけはない。
しいていれば、
「青年期が、戦時中くらいだったのではないか?」
ということが想像つく。
ということは、
「軍隊に入隊して、派兵された経験を持っているのではないか?」
と考えられるのだった。
その頃の日本は、今とまったく違う時代であり、
「主権は天皇」
「国家に自由はほとんど存在せず。政府も挙国一致」
さらには、
「軍部が暴走する時代だった」
といえるだろう。
軍部の暴走というのは、そもそもが、
「天皇による統帥権」
というものがあり、憲法の条文に、
「天皇は、陸海軍を統帥す」
というものがあるのだった。
つまりは、
「陸海軍というのは、天皇直轄である」
ということであり、
「天皇の命令で動くもの」
ということであり、さらに、
「それ以外の、命令は一切聞かなくてもいい」
ということになるのだ。
だから、
「政府や、総理大臣と言えども、軍に口出しはできないし、また機密保護の観点から、軍の作戦を、政府やそれ以外に、漏らすことはできない」
ということになるのだ。
それが、
「大日本帝国」
というもので、この大日本帝国は、
「立憲君主国だ」
ということになるのだ。
だから、戦争において国民は、
「日本国は神の国であり、それが、天皇陛下になる」
ということであった。
死を前にした時、ほとんどの兵士は、
「天皇陛下万歳」
といって、命を断っていた。
しかも、
「武器を持たない一般市民」
ですら、追い詰められれば、
「玉砕」
という形で、
「何も持たず、敵の銃弾の前に立ちふさがる」
という、文字通りの、
「捨て身戦法」
であった。
これは、戦法などと呼ばれるものではない。
「戦陣訓」
と呼ばれたものを、
「戦時に対して、相手に追い詰められた時」
のことを訓示としている内容に、
「生きて両州の辱めを受けず」
ということで、
「捕虜になるくらいであれば、自ら命を断つ」
ということが、
「国民の戦時の心がけ」
ということで、軍から発令されたものだった。
というのは、
「確かに。捕虜になると何をされるか分からない」
ということで、特に敵国である、相手国に対して、
「鬼畜米英」
などと呼び、
「もし、捕虜などになれば、拷問を受けて、さらに、人体実験に使われたり、虐待の限りを尽くされて、最後には、ごみのように殺される」
ということを頭の中に植え付けられれば、
「いざという時には、自らで命を断つしかない」
ということになるだろう。
それが、
「大日本帝国。臣民の義務である」
というかのようなものであった。
確かに、あの時代は、
「世界のどこででも、戦争をしていたわけで、どこにも、逃げ場はない」
ということであった。
だったら、
「日本国民として潔く死に服す」
と考えるのが、当然であろう。
特に、
「親と同等か、それ以上の存在」
ということで、
「天皇陛下がおあせられる」
ということになるのだから、ある意味、
作品名:趣味が凌駕するバランス 作家名:森本晃次