趣味が凌駕するバランス
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年2月時点のものです。時代背景と時代考証とは、必ずしも一致するわけではありませんので、ご了承ください。一種のパラレルワールドでしょうか?
人とのかかわり
山崎文博は、今年40歳になる、独身男性であった。
会社では、係長になっていて、部下も数人いた。
彼が今所属している部署は、管理部で、その中の経理の仕事をしていた。元々は営業で入社し、営業畑でやっていくつもりであったが、そのつもりで支店経験を2年積んでいたが、それを見た上司が、
「営業失格」
の烙印を押し、
「本部の経理部で、人が足りない」
ということになり、その補充ということで、山崎が呼ばれたのだ。
山崎としては、
「渡りに船
」だったのだ。
そもそも、昔から、
「営業なんて俺にできるのか?」
という思いもあり、会社に入った時も手探り状態だったが、見習いのうちから、
「何か嫌だな」
と思うようになっていた。
「ものを売って、それが、自分の実績になる」
というのは、嫌というわけではないのだが、それよりも、
「何もないところから、何かを生み出す」
ということが好きだったこともあって、
「営業なんて似合わない」
と思うようになったのだ。
だから、
「営業は失格だな」
という烙印を押された時、ショックではあったが、それよりも、
「安心した」
と言った方がよかったかも知れない。
実際に、毎日、2時間近くも他の社員よりも早く出かけて、前の日の営業の後片付けであったり、営業会議などがあることから、
「遅くとも、7時半までには、営業社員は出社しなさい」
ということになっていた。
「前の日の仕事は、前の日までに」
というのが基本なのであろうが、営業から帰ってくるのが、午後8時くらいになると、それから事務処理をしていると、10時近くになってしまう。会社の方針とすれば、
「夜は、あまり残業しない」
ということになっていて、
「どうせ、朝は早めに出勤しなければいけないのだから、その時にすればいい」
というのが、この会社の慣習だったのだ。
この会社の業種というのは、
「食品の卸」
ということで、本社は、
「食品商社」
ということになっている。
支店長が、
「昔はバリバリの営業だった」
ということで、営業職は、まるで、
「戦闘集団」
といってもいいだろう。
そんな営業職というもの、この界隈に限ったわけではないのだろうが、なかなか厳しいものであった。
「まだ、ルート偉業なのでましな方だ」
ということであった。
各家庭を営業相手にしている業界は、
「新規開拓」
ということで、会員数を増やすことが目的というところが多い。
そういう会社は、営業が、
「新規開拓から、アフターフォローまでしなければならず、かなりきついということだ」
と言われている。
ポスティング用のチラシを作ったり、それを見て問い合わせをしてくれた家庭にお邪魔して、会社のシステムを説明したりしなければいけない。
相手が在宅でないといけないということが基本なので、その訪問は、おのずと、夜7時以降というのが、定番といってもいいだろう。
昼間は、突撃訪問ということもしてはいたが、何しろ今の時代は、ほとんどの人が共稼ぎだったりして、家にいないことが多い。
家にいたとしても、子育てに追われている人は、とても、自分たちの話などを聴いてもらえる状況ではない。
「旦那さんが帰ってきて、奥さんが、少し手が空いた時間帯に訪問する」
ということくらいしか方法はないのだ。
そうやって、夜がほとんどの営業時間ともなると、
「仕事は、昼から」
ということで、まるで、
「シフト勤務」
の様相を呈しているといってもいいだろう。
それでも、会社には、
「10時までには出社」
ということになっているところも多く、
「結構厄介だ」
という話を聴いたりもした。
それを思えば、
「食品卸の営業は、そうでもない」
と思っていたが、それは甘い考えだった。
大学を卒業して、地元に帰ってきて入社した会社だった。
最初は、
「大学の近くの都心部にある企業に入社希望であったが、実際に就活を始めると、なかなかうまくいかなかった」
というのは、
「バブルの崩壊」
のあった、
「就職氷河期」
と呼ばれた時代から比べれば、少しはマシだったのかも知れないが、なかなか企業も、
「たくさん人を取る」
ということはないようだった。
「大学閥」
というのがある企業もあったが、それも、
「体育会系」
と呼ばれるような部活をしてきたというような実績があれば別だが、そうでもなければ、なかなか、
「大学閥での入社にはおぼつかない」
ということであった。
しかも、成績だって平凡だった。なかなか内定におぼつくこともなかったのだ。
「ある程度の時期まで、就職が決まらない」
というのは、かなりきついものであった。
特に、
「10月までに内定がもらえないと、焦るわな」
と就活を始めた時、皆がいっていたことだった。
山崎は、自分が、
「簡単に内定がもらえる」
などということを思っていたわけではない。
どちらかというと、
「内定がもらえたとしても、ランクを下げたところだろうな」
と思っていた、
しかも、
「二、三十社受ければ、数社くらいからは内定がもらえる」
とまでタカをくくっていた。
しかし、実際には、そんな甘いものではなかった。
「一日に3社、面接を受けたこともあった」
というくらいに、いろいろな会社を受けまくったのだが、そんなに簡単に内定がもらえるわけでもなかった。
「夏本番と呼ばれる時期に、スーツを着て、ずっと面接まわりをしていると、次第に感覚がマヒしてくるのを感じるくらいだった」
面接を受けるには、それ相応の対応が必要である。相手からは、どのような質問をされるか分からないわけなので、資料請求をしてもらった会社のパンフレットであったり、会社案内のようなものは、しっかり読み込んでおく必要がある。
例えば、
「社長の名前」
などは、フルネームで覚えておくのは当たり前で、会社の資本金や主要な取引会社や、主要銀行などを覚えるのも当然だった。
だから、
「一日に数社の面接」
などというと、頭の中が混乱してしまうのも仕方がない。
「別の会社の社長の名前を言ってしまうなどということもあったかも知れないな」
とも感じるが、相手も、
人とのかかわり
山崎文博は、今年40歳になる、独身男性であった。
会社では、係長になっていて、部下も数人いた。
彼が今所属している部署は、管理部で、その中の経理の仕事をしていた。元々は営業で入社し、営業畑でやっていくつもりであったが、そのつもりで支店経験を2年積んでいたが、それを見た上司が、
「営業失格」
の烙印を押し、
「本部の経理部で、人が足りない」
ということになり、その補充ということで、山崎が呼ばれたのだ。
山崎としては、
「渡りに船
」だったのだ。
そもそも、昔から、
「営業なんて俺にできるのか?」
という思いもあり、会社に入った時も手探り状態だったが、見習いのうちから、
「何か嫌だな」
と思うようになっていた。
「ものを売って、それが、自分の実績になる」
というのは、嫌というわけではないのだが、それよりも、
「何もないところから、何かを生み出す」
ということが好きだったこともあって、
「営業なんて似合わない」
と思うようになったのだ。
だから、
「営業は失格だな」
という烙印を押された時、ショックではあったが、それよりも、
「安心した」
と言った方がよかったかも知れない。
実際に、毎日、2時間近くも他の社員よりも早く出かけて、前の日の営業の後片付けであったり、営業会議などがあることから、
「遅くとも、7時半までには、営業社員は出社しなさい」
ということになっていた。
「前の日の仕事は、前の日までに」
というのが基本なのであろうが、営業から帰ってくるのが、午後8時くらいになると、それから事務処理をしていると、10時近くになってしまう。会社の方針とすれば、
「夜は、あまり残業しない」
ということになっていて、
「どうせ、朝は早めに出勤しなければいけないのだから、その時にすればいい」
というのが、この会社の慣習だったのだ。
この会社の業種というのは、
「食品の卸」
ということで、本社は、
「食品商社」
ということになっている。
支店長が、
「昔はバリバリの営業だった」
ということで、営業職は、まるで、
「戦闘集団」
といってもいいだろう。
そんな営業職というもの、この界隈に限ったわけではないのだろうが、なかなか厳しいものであった。
「まだ、ルート偉業なのでましな方だ」
ということであった。
各家庭を営業相手にしている業界は、
「新規開拓」
ということで、会員数を増やすことが目的というところが多い。
そういう会社は、営業が、
「新規開拓から、アフターフォローまでしなければならず、かなりきついということだ」
と言われている。
ポスティング用のチラシを作ったり、それを見て問い合わせをしてくれた家庭にお邪魔して、会社のシステムを説明したりしなければいけない。
相手が在宅でないといけないということが基本なので、その訪問は、おのずと、夜7時以降というのが、定番といってもいいだろう。
昼間は、突撃訪問ということもしてはいたが、何しろ今の時代は、ほとんどの人が共稼ぎだったりして、家にいないことが多い。
家にいたとしても、子育てに追われている人は、とても、自分たちの話などを聴いてもらえる状況ではない。
「旦那さんが帰ってきて、奥さんが、少し手が空いた時間帯に訪問する」
ということくらいしか方法はないのだ。
そうやって、夜がほとんどの営業時間ともなると、
「仕事は、昼から」
ということで、まるで、
「シフト勤務」
の様相を呈しているといってもいいだろう。
それでも、会社には、
「10時までには出社」
ということになっているところも多く、
「結構厄介だ」
という話を聴いたりもした。
それを思えば、
「食品卸の営業は、そうでもない」
と思っていたが、それは甘い考えだった。
大学を卒業して、地元に帰ってきて入社した会社だった。
最初は、
「大学の近くの都心部にある企業に入社希望であったが、実際に就活を始めると、なかなかうまくいかなかった」
というのは、
「バブルの崩壊」
のあった、
「就職氷河期」
と呼ばれた時代から比べれば、少しはマシだったのかも知れないが、なかなか企業も、
「たくさん人を取る」
ということはないようだった。
「大学閥」
というのがある企業もあったが、それも、
「体育会系」
と呼ばれるような部活をしてきたというような実績があれば別だが、そうでもなければ、なかなか、
「大学閥での入社にはおぼつかない」
ということであった。
しかも、成績だって平凡だった。なかなか内定におぼつくこともなかったのだ。
「ある程度の時期まで、就職が決まらない」
というのは、かなりきついものであった。
特に、
「10月までに内定がもらえないと、焦るわな」
と就活を始めた時、皆がいっていたことだった。
山崎は、自分が、
「簡単に内定がもらえる」
などということを思っていたわけではない。
どちらかというと、
「内定がもらえたとしても、ランクを下げたところだろうな」
と思っていた、
しかも、
「二、三十社受ければ、数社くらいからは内定がもらえる」
とまでタカをくくっていた。
しかし、実際には、そんな甘いものではなかった。
「一日に3社、面接を受けたこともあった」
というくらいに、いろいろな会社を受けまくったのだが、そんなに簡単に内定がもらえるわけでもなかった。
「夏本番と呼ばれる時期に、スーツを着て、ずっと面接まわりをしていると、次第に感覚がマヒしてくるのを感じるくらいだった」
面接を受けるには、それ相応の対応が必要である。相手からは、どのような質問をされるか分からないわけなので、資料請求をしてもらった会社のパンフレットであったり、会社案内のようなものは、しっかり読み込んでおく必要がある。
例えば、
「社長の名前」
などは、フルネームで覚えておくのは当たり前で、会社の資本金や主要な取引会社や、主要銀行などを覚えるのも当然だった。
だから、
「一日に数社の面接」
などというと、頭の中が混乱してしまうのも仕方がない。
「別の会社の社長の名前を言ってしまうなどということもあったかも知れないな」
とも感じるが、相手も、
作品名:趣味が凌駕するバランス 作家名:森本晃次