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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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夢幻空花(むげんくうげ)

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 自同律の不快は埴谷雄高の言であるが、闇尾超は思ふに自同律の不快ならぬ自同律の憤怒へと辿り着いた最初の人なのかもしれぬ。それはいひ過ぎかも知れぬが、しかし、闇尾超にとって自同律は快不快では最早済まぬのっひきならぬもので、己が此の世に存在してゐること自体激怒の因にしかならず、それは生きてゐることが憤怒でしかないといふ誠に誠に生き辛い、成程、闇尾超が己を絶えず弾劾してゐたのも解らなくもないのである。尤も、闇尾超にとって理想の自分といふものがあったかといふと、それはなかったやうに思ふ。唯、闇尾超は世界に翻弄される己が許せなかったのだ。そんな我が儘はこの不合理な世界では全く通用しないが、それではその憤怒の淵源は何に由来するのかと闇尾超は絶えず己に問ふてゐたに違ひない。それは元を辿れば闇尾超といふ存在に深く根ざしたもので、それは例へば闇尾超が幼少期に負った心的外傷なのかもしれず、それが時空間恐怖症の類ひであったならば目も当てられず、闇尾超の存在は絶えず恐怖で戦いてゐた筈である。もし時空間が恐怖の対象でしかなかったならば、それは発狂する以外どうしたらいいのだらうか。然し乍ら、闇尾超は確かに時空間恐怖症だったと思へる。それは闇尾超のあらゆる仕草から誰の目にも明らかだったのである。闇尾超が何気なく発した言葉に、皆驚いたものであった。例へば、
――何故ものは時空間を動けるのか?
などと、闇尾超は真顔でいふのであった。闇尾超にとってものが時空間を動けることが不思議でならなかったのだ。それも当然である。何せ闇尾超にとって時空間は恐怖の対象であり、その時空間をものが動けることは闇尾超にとっては謎でしかなく、どうしても腑に落ちぬ事象の一つなのであった。それ故に恐怖の対象に絶えず囲繞されてゐる存在のどうしやうもない居心地の悪さは、発狂せずば、憤怒にならざるを得ぬ。存在することが即ち憤怒でしかないのである。憤怒せずば、一時も時空間に対峙して世界に存在することは不可能に違ひないのである。時空間恐怖症といふ心的外傷を抱へてゐたであらう闇尾超は、絶えざる恐怖心から憤怒の人になってゐたのだ。どう足掻いても納得が行かぬことに対してそれには深く関はらぬといふ極普通の人たちに付和雷同することは己に対して不義を働くことであり、己の存在に対して正直だった闇尾超は、時空間恐怖症であることを隠さうとはしなかったのである。

夢を見るといふことはそもそも特異点の存在を暗示させるものである

――三島由紀夫のやうに己の首が斬首される夢を見た。その時、私の首は一太刀では切り落とせずに、何度も何度も日本刀で切り刻まれ、やっとのことで胴体から切り離されたのだ。夢の中の私の分身はそれに対して何の疑問も抱かずに唯、指を銜へて、まるで他人事(ひとごと)のやうにその様を凝視してゐるのみなのであった。しかし、その後味の悪さといったならば、筆舌に尽くし難い。ところが、夢は夢の論理が何よりも優先するからこそ、つまり、私の意思とは無関係に、或ひは私は夢の論理に絶対服従故に夢の秩序が私に先立つ事態が進行するからこそ、尤も、私が見る夢でさへ、私は夢に対して何の疑念も抱かずにその不合理を受け容れてゐるといふ、唯単に眼前で進行する夢の事態を丸ごと受忍するからこそ、此の世に特異点が存在することを暗示するといへる。特異点とは説明するまでもないが、至極簡単にいへば、分数の分母を限りなく0に漸近させ、遂には分母が0になった途端に現はれるであらう摩訶不思議な世界のことをいふのであるが、分数の分母が0の時、それは数学的には定義できず未定なものとして、つまり、それが特異点の定義の一つであるが、私は特異点が出現したその時点で現出するであらう世界は夢に近似した世界だと看做してゐる。それは思ふに夢はそもそも因果律が破綻してゐるが、特異点でも因果律は破綻してゐる筈である。特異点は質料と形相の備はった形ある有が多分に無限大へと、つまり、この世の摂理からしてあり得ぬ有から無限大へのそれは到底不可能な変化(へんげ)できぬものへと存在が光速を超えた速度で爆発的膨脹をしていくことかもしれず、有が無限大へと超高速で膨脹していくといふことは、多分に特異点へと突き進むその場には、その前段階としてBlack holeが現はれ、Black holeとは巷間で語られてゐるやうに光すら逃れ出られぬといふことは、裏を返せばBlack holeは物質で充溢した世界といへ、また、Black hole内ではこれまた因果律が破綻しかけた世界であると想像すれば、その想像をすこぶる単純に数直線状に延長するが如くに想像を羽撃かせると、特異点では光が充溢して因果律が破綻した世界といふものと看做せなくもない。それは正(まさ)しく夢世界と相似形を成した世界といへ、夢を見られるといふことは、即ち特異点の存在を暗示するといへる。さうでなければ、「私」は夢に対して全くの影響力がなく、夢の論理に対して絶対服従する世界を表出できる訳がないのだ。然し乍ら、幻像を以てして特異点を語る虚しさにも言及しておかねばならぬ。夢の光景をして特異点の存在を暗示するとしかいへぬ口惜しさ。それは映像で以て特異点のなんたるかを語ってゐるのであるが、それでは、然し乍ら、何も語ったことにはならず、特異点といふものに全く漸近してゐないことに等しいのである。頭に過る映像に依拠せずに語らないことには特異点を取り逃がし、
――わっはっはっはっ。
と、嘲笑されるのが落ちなのである。映像のその先にある闇をして特異点も語り果せねば、特異点を取り逃がすこと必定である。須く文字にのみ頼るべし。

 闇尾超は夢を使ひ古された襤褸布と同じく、現代ではもう夢神話は破壊され尽くされ、夢を語って何かを暗示させる文学的手法は藻屑と消え、夢そのものの神通力はもうないと嘗て述べてゐたが、夢が特異点を暗示させるといふ啓示を得たといふことは、闇尾超もやはり夢に弄ばれてゐて、ずっと夢の謎を脳科学とは一線を画した中で、その位相を見つけたくてうずうずしてゐたに違ひない。それが或る日、夢と特異点といふ一見すると似ても似つかぬものに結び付き、それがある種の確信に変はっていったのだ。その時の闇尾超の胸に去来したものとは何だったのだらうか。嬉しさはあったに違ひないが、それ以上に絶望しかなかったのではないだらうか。それは何故かといふと、所詮人間に「一≒無限大(∞)」を持ち切るのは酷といふことに闇尾超は思ひを馳せたに違ひない。無限大を単独者たる一存在者が――簡単に無限大とはいふけれど――無限大といふものの実相を想像できる人間が、果せる哉、想像の網に引っかかる程の想像力を持ち合せてゐるのか、甚だ疑問であるからだ。数学的には無限大の存在は排中律により証明されてはゐるが、それは、無限大が存在しなくてはをかしいといふことを間接的に証明してゐるのみで、直截、無限大の素顔を見たものはゐないのだ。そもそも素顔は有限のもので、無限大の素顔といふ表現は全くをかしなことで、さうだからこそ尚更、無限大は人間の想像力を遙かに超えたものなのである。