夢幻空花(むげんくうげ)
然し乍ら、オイラーの等式を導き出すオイラーの公式は、存在が絶えず揺らめいて振幅を表してゐると解釈できなくはないことの数学的な帰結であるので、強ち闇尾超の推論が間違ひであるといふことでもない。全ては存在が揺らめいて曖昧模糊としてしか存在できぬことを指し示す証左として数学的な表現では、その帰結としてオイラーの公式が見出され、言語表現では、埴谷雄高の虚体、更にいへば、闇尾超が主張したところの杳体の、その杳として存在を摑まへられぬ主体のもどかしさは、存在そもそもが古めかしい言ひ方をすればハイゼンベルクの不確定性原理により存在が曖昧模糊としたものであり、存在を確たるものとして摑まへることは逆立ちしても不可能事であるのだ。存在といって画然と存在してゐるものなどそもそも此の世に存在しない。あるのは曖昧なものばかりで、それをして存在が闡明するものとして捉へるのは、誤謬の始まりであり、誤謬と戯れてゐたければ、それで構はぬが、闇尾超も私も誤謬を突き抜けた何が見えるか今以て誰も目にしたことがない視界を見たいが為に日日、悪戦苦闘し、さうして、闇尾超は精神を病んでその果てに夭折してしまった。それでも、
――Eureka!
と、感嘆してゐることから、闇尾超は存在の秘密の何かを垣間見たことだらう。さうぢゃなきゃ、闇尾超は死んでも死にきれなかった筈だ。しかし、私には闇尾超の霊魂が未だに此の世を彷徨ってゐて更に思索に思索を重ね、一度垣間見た存在の秘密をそれこそ合理的に構築して見せ、不合理な世界、若しくは闇尾超の望みであった此の不合理な宇宙をぎょっといはせ、宇宙顚覆のその端緒を見出さうと躍起になってゐるのかもしれぬ。
ともかく、闇尾超は何かを見出したことは確かだ。存在然としてゐながらその実、霧がかかったかのやうに曖昧模糊としてしか存在できぬ存在物は、その尻尾を闇尾超に摑まれ、仮象の国に安住してゐた物自体を引っ張り出して宇宙に蟻の一穴ではないが穴を開けたのかもしれぬ。だが、宇宙は、その時、ニヤリを笑ってその穴を闇尾超当人で栓をしてあれよといふ間に塞いでしまったやもしれぬのだ。その穴を仮に《ゼロの穴》と名付けてみれば、そのゼロの穴の栓になった闇尾超は例えば虚数が蠢く虚=世界を覗き込んだのであらうか。その宇宙の穴から見えた世界は一体全体どんな風景だったのだらうか。思ふに闇尾超が見るもの全ては、闇尾超の視線が向いた途端に存在は皆恥ずかしがり、闇に身を隠してしまったのだらうか。私は虚数の世界は闇の中だと思ってゐるのだが、闇に対した闇尾超は果たして何を見出したのだらうか。
自同律の不快の妙
――自同律の不快の妙。埴谷雄高は、自同律を自同律の中に閉ぢ込めて合理的な考察に終始することなく、不快としたところにこの埴谷雄高の論法の妙が存分に現れてゐる。人間の起動力の一つに快不快があるが、それを自同律に持ってきた埴谷雄高の手捌きは優れてゐるといってよい。例へば『私は私である』で論理は一旦一区切りして、其処で思考は終はりを迎へるのが極普通のことであるが、埴谷雄高はぢっと思索に耽り、『私は私である』を蛸を噛むやうに何度も噛んでゐる中で、自同律から自然と湧き起こる『不快』といふ感情は如何ともし難いものとして自同律の不快といふ人類の思索史に残る箴言を残した。これは、しかし、誰もが抱く感情で、埴谷雄高以前に言葉として表したものは数知れずゐるが、それを端的に『自同律の不快』と名指せた炯眼に平伏す。しかし、事はそれでは済まず、自同律の不快のその先には必ず自己抹殺があり、つまり、『自同律の不快』は自己抹殺の狼煙であり、一度は必ず私は私によって抹殺される業を背負ってゐるのだ。それ故、『自同律の不快』は『自同律の不快故の自滅』が正確な言明であり、自身を自身の手で抹殺しなければならぬのが存在の存在たる所以である、といふのが存在の進むべき道である。
雨降る真夜中、雨音だけが響く中で独り思索に耽ってゐると、不意に闇尾超が現れてぼそりと呟くのを聞くやうな気がしたのである。
――私といった以上、私は私自身の手で私を抹殺しなければ、満足せぬ。
それが闇尾超の本望なのであらうか。結局の所、闇尾超は底無しの循環論法に陥ってしまひ、自縄自縛の中、どうにも身動きがとれずに、自棄(やけ)のやんぱちでこれ見よがしに自同律の不快を振り翳してブスリブスリとその切れ味鋭い刃で己を切り刻んでゐたのであらう。闇尾超にとっては自同律は不快ではなく苦痛であったのだ。痛みを忘れるために闇尾超は精神的自刃を毎日行ってゐたことは簡単に想像はつくが、それでは更に酷い痛みに襲はれるだけで、何にも解決しなかったに違ひない。それでも闇尾超は一時でも闇尾超であることに我慢がならず、倦むことを知らずに己の手で、己の精神をぼろぼろになるまで、日日、切り刻んで、それを少しの慰みにしてゐた。しかし、だからそれがどうしたといふのだ。闇尾超よ、自同律の苦痛なんて何も珍しいことではなく、極普通のことだぜ。それを何か特別な何かと勘違ひし、それは闇尾超独特の皮肉を込めたわざとの勘違ひをして、それを口実に己を自傷するのは現実逃避の一行動に過ぎぬ。
例へば時空間すらも己の存在に恥じてゐて、恥じ入るばかり故に時空間は絶えず変容し、時間のみを敢へて取り出せば、己に我慢がならずに憤怒に燃えてゐるから時間は流れるとしたならば、その先には時間が目指す”理想”といふのも烏滸がましいのであるが、それでも時間にしてみれば、存在の思ひもよらぬ帰結を目指して紆余曲折を経ながら”流れる”のであらうか。さうして存在は、森羅万象は、時間に翻弄され、時空間に弄ばれながら、存在もまた、そんな不合理で残酷極まりない時空間に順応するやうにと、尻を叩かれかちかち山の狸ではないが、兎に背負ってゐた柴に火をつけられ背に大火傷を負ひ、仕舞ひには惨殺される狸よろしく、此の世の森羅万象は世界に翻弄され、その挙げ句に憤死するのをぢっと待つのみの、世界にしたならばこれほど御しやすい存在もないのかもしれぬ。さうならば、存在はどうあっても世界に対して反乱の狼煙を上げるのが道理である。自同律の不快に端を発する憤怒は年を経る毎にその炎は燃え盛り、火炎の権化と化した存在は逆巻く炎に身を焦がしつつ、世界を焼き払はふとする筈である。仮にさうならないのであれば、それは存在としての怠慢であり、闇尾超も私も許し難い存在として唾棄するに違ひない。
森羅万象の憤懣は、然し乍ら、世界に対しては無力で、やはり世界に翻弄され続けながら、生き延びるのがやっとなのであるが、心の奥底で熾火の如くに燃え続けてゐる世界、または時空間に対する憤怒の火は、何時炎になってもおかしくないその時をぢっと待ってゐるのだ。それは星が大爆発してその一生を終えるやうに存在が滅亡する時、存在が絶えず抱へ込む憤怒の火はぼわっと一気に火勢を強め、大規模な手のつけられぬ山火事の如くに燃え盛る炎となって大爆発し、それは死の爆風として一瞬に全宇宙に燃え広がる爆風は尚も生き残る存在に対して少なからぬ影響を及ぼしては憤怒のRelayを行ふに違ひない。
作品名:夢幻空花(むげんくうげ) 作家名:積 緋露雪