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エビフライとプラチナの月夜

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七月の蒸し暑い夜に雨が降っていた。築五十年の木造アパートの室内は気温も湿度も上がり、髪一本一本が区別できるくらい存在を主張しながら首筋にまとわりついている。
 この中年女性は仁王様のような憤怒の表情を顔に浮かべているが、それはいつものことである。頭の中の世界観と現実はいつも一致しないが、自分の頭が正しいとしなければ自死するしかないので、周りにいるのはデタラメの人間なんだと決めつけるしかない。世の中は間違った人間だらけであり、自分は不当に犠牲になり続けているのでどんな手段を使ってでも元を取らなければならない。そんな思念が渦巻いていた。
 三十代になって顔の張りが無くなるとホステスはクビになった。引越屋、クリーニング屋、弁当屋、そして喫茶店。いろいろなバイトを経験したがミスばかりするのでどこでも一ヶ月くらいでクビになる。今の仕事は半年くらい続いているが賃金は安い。着るものはここ数年間買ったことがない。
 とにかく金がない。娘の多幸子が生まれたせいだ。男は子供ができると泣き声がうるさいと言ってさっさと出て行き、養育費は入れなかった。
 多幸子はもやしのように細く白く育った。その顔には常に何か食べさせてください、という切実な願いがあった。怒りのはけ口となり、指の骨を折られ、鼻骨を折られ、若い細胞活性をもってしても体は元通りとはいかなかった。そして表面的には従順で家畜のように自我の薄い無口な人間になった。
 しかし心底には母親のような幸薄い人間にならないためにどうしたらいいか考える意志が残っていた。消えかけたローソクの炎は残渣のように残っており、飲食店でのアルバイトを通じた人間観察の結果として、高校は出た方がいいと漠然と判断していた。
 母親の携帯が鳴った。娘の通う私立高校の担任教師の田村だった。
「あのう奨学金申込の期限が明日となっていますが、申込はされないということでよろしいでしょうか?」
「そんなの聞いてないわよ!」
 女は金切り声を上げた。
「何度か書面でお知らせしてますし、ホームルームでもお伝えしていますが」
「奨学金もらえなかったらどうしてくれるのよ!」
「私もたくさんの生徒を抱えてやっていますのでそんなこと言われましても困ります。奨学金は希望されないと言うことで宜しいでしょうか?」
「そんなわけないでしょ! お金ちょうだいよ! 学費なんか高くて払えないわよ!」
「まだ間に合いますからなんとか頑張って頂いて申請書を出してはいかがでしょうか。多幸子さんは学習意欲がお有りなのでもったいないと思います」
 待ってましたとばかりに多幸子は床に散らかった紙くずから申込案内の書面を探し出して母親に差し出した。
「なによ、これ! 戸籍抄本ってなに、どこでどうすれば手に入るの? 全然意味がわからないわよ!」
「それは市役所でお尋ねください」
 焦点の合わない押し問答を繰り返した挙句に一方的に電話が切れた。
 この女が娘と共に高校職員室に現れたのは、翌日の夕方の五時過ぎだった。提出された奨学金申請書は誤字脱字、及び未記入が多く、田村先生はいちいち確認しながら訂正をしていった。
「あのお・・・・・・、すみませんが、印鑑が押されていないので受理できません」
「どうして注意してくれなかったのよ。印鑑なんか持ってきてないわよ。奨学金を取れなかったらどうしてくれるのよ!」
 女は大声を張り上げ地団駄を踏み、ゴミ箱を蹴飛ばして紙くずを散乱させ、絶叫し、そして説教を行った。田村先生以外の職員室の教師たちは顔を背け、見てみないふりをした。校長は気が弱くて生徒をコントロール出来ない田村教諭を退職に追い込むために奨学金担当を意図的に一人だけにして激務を強いていた。このことは半ば公然であった。
 田村先生は県の担当者に電話をかけて、一時間ほど提出を待ってもらえないか打診したところ、学生の人生がかかっているのだから今回だけは特別に待つということになった。
「一時間だけ待ってくれるとのことですから、大急ぎで印鑑を取ってきてくださいね」
 女と娘は白い軽自動車に乗り込んで自宅に戻っていった。
 女は憤怒にまみれて荒々しく軽自動車を運転した。
路地から黒い服を着た老人が突然ふらりと通りに出てきた。急ブレーキを踏んで車内で罵った。
「危ない! ふざけるな! もういやだ! もういやだ!」
 さらなる立腹は止めようもなく、蛇行運転をしながら大声で田村先生のことを罵り始めた。
「大学出たばかりの小娘のくせに偉そうに! ぶっ殺してやる!」
 多幸子はいつものことだから黙っていた。
「どいつもこいつもいじわるばかりして。バカにするなあ!!」
 突然、「ウオー」と絶叫しながらウィンカーを出さずに右折し、ファミレスの駐車場に入った。対向車が急ブレーキを踏んで衝突を回避した。
「腹が立ちすぎて腹が減った! 何か食べなきゃもうやってらんないわよ!」 
 この地方では飲食店は少なく、幹線国道沿いには総合病院に隣接するこの店しかない。
 入口から一番近いところの席に無断で座り、しばらくすると大声でウエートレスを呼んだ。
「なにか御用でしょうか?」
「御用でしょうかはないでしょう! 忙しいんだからさっさと注文を取りに来なさいよ!」
「当店では、ボタンを押すことで注文のお伺いをするシステムになっております」
「そんなの聞いてないわよ」
「ここに書いてございます」
「カレーライスを一つ頂戴、急いでるんだからね! 遅れたら承知しないわよ!」
「なるべく早くサービスするように努めさせて頂きます。付け合わせのサラダにかけるドレッシングは何がよろしいでしょうか、サウザンアイランドドレッシング、フレンチドレッシング、和風ドレッシングとございますが?」
「サウザンなんとかドレッシングっていったい何よ! 日本語で言いなさいよ!」
 ウエートレスが押し黙ったことにさらにいきり立った女はコップを床にたたきつけた。
 若いウエートレスは怯えて後ずさりした。
「バカにしやがって! もう許さないわよ!」
 フォークとナイフを振りかざして女は立ち上がった。
 多幸子は素早くテーブルの下に隠れた。暴力を避けるために習慣にしている行為だった。
 レジにいた初老の女性店長が叫んだ。
「お客様、暴力はおやめください! 誰か! 誰か!」
 料理を楽しんでいた客たちはみな手を止めた。
 つまずいて倒れたウエートレスの膝に鬼女が両手でフォークを突き刺した。
 絶叫が店内に響き渡った。
 店外に避難しようと幼子を抱えた客の女が走り出した。プレートを持ち運んでいたウエートレスにぶつかり料理が床に散乱した。他の客も次々に店の外に逃げ出した。
 店長は遠巻きにして「誰か停めてください、誰か! 誰か!」と叫んでいた。
 多幸子は客がいなくなったレストランの床に這いつくばり、目の前に落ちていたエビフライを食べた。きつね色の衣が口の中でサクサクとほどけ、香ばしい香りがはじけた。噛むとエビの旨味の汁が口いっぱいに広がった。
 生まれて初めて食べたエビフライの美味しさに陶然としながらも彼女はゆっくりと立ち上がり、ふらふらとした足取りで店を出た。
 遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。