Zealots
今になってやっと気づいたことだけど、そう言ったとき、目を合わせなかった母は泣いていたのだと思う。お土産を買うことなく家に帰って、母が仕事に出てからは家が一週間空っぽになった。そして、母は工場地帯に停められた車の中で、死体となって発見された。ニュースでは何人か関係者が逮捕されたと報道されていたけど、実行犯は捕まらなかった。父はそこから姿を消し、代わりに家政婦さん二人と、竹尾と安積、そしてザッキーが現れた。誰も、何も説明してくれなかった。ただ、リボンに追いつくように、自分の体が少しずつ大きくなっていくだけだった。
凛奈は、ライチジュースを飲み干して空になったペットボトルをゴミ箱に入れると、スマートフォンをジーンズのポケットに押し込んで部屋から出た。本当に竹尾と安積がいないなら、確認して回りたい。今までなら、絶対になかったことだ。ザッキーがいつもと違って緊張していたのも、何か関係があるのかもしれない。階段を下りる足が自然と早まり、トイレに繋がる廊下に足を踏み出したとき、凛奈は若い方の家政婦が寝落ちしたように床に倒れていることに気づいた。同時に両足が地面から浮き、自分が抱え上げられたことに気づいた。
「ちょ、ちょっと!」
姫浦は、凛奈の体を万力のような腕で挟み込むと、裏口へ向かった。凛奈は顔を見ようとして必死に首を曲げながら、言った。
「どうやって入ったんですか!」
自分をどこかに連れて行こうとする足が止まり、万力のような腕が少し緩んだ。凛奈は体を捩ると、首をようやく姫浦の方に向けた。目が合うのと同時に腕から完全に解放され、凛奈は再び自分の足で廊下に立った。
「私は、姫浦と申します。お父さんからの依頼で、迎えに来ました」
「じゃあ、最初にそう言ってよ! 体の真ん中、掴まないよね普通?」
そう言うと、凛奈は姫浦の全身を見渡した。グレーのジャージに紺色のカーゴパンツ姿で、ほとんど額を隠している前髪を除けば、体育の先生に見える。
「家政婦さん……、大丈夫なんですか?」
凛奈が言うと、姫浦は先を促すように手を差し出した。
「落ちているだけです」
凛奈はほっと息をつくと、二階を指差した。
「持って行きたいものがあるんですけど、取ってきていいですか?」
「いいえ」
姫浦は即答すると、凛奈の手を引いて脇腹に腕を回した。再び抱え上げられた凛奈は、足を壁に押し付けて抵抗した。
「ちょっと……! もっと、迎えに来た感じを出してってば!」
力では到底勝てず、凛奈は抵抗することを諦めた。裏口に出て、姫浦は凛奈を腕から解放すると、綺麗に並べられたスニーカーに目を向けた。
「私が用意しました。よかったら、どうぞ」
凛奈は素直に靴を履き、顔を上げて姫浦に言った。
「あの、このまま連れて行ってくれるんですか? 護衛がいるので、外は気をつけた方がいいです。二人組で、結構強いんですよ」
姫浦は形だけ周囲を見回すと、塀に沿うように停められたプリウスのドアロックを開錠した。凛奈はジーンズのポケットからはみ出たスマートフォンに触れてマイクを起動すると、小さく咳ばらいをしてから言った。
「システム、リセット」
家の中の電気が一斉に消え、姫浦は目を丸くした。
「ハイテクですね」
「わたしが設定したんです。ぜーんぶ元通り。すごいでしょ」
凛奈は後部座席に座り、ドアノブをそっと捻った。想像していた通りで、チャイルドロックがかかっている。姫浦が運転席に座ってエンジンをかけたとき、凛奈は言った。
「私物は、後で回収できますか?」
「いずれは、必ず」
姫浦は短く答えると、プリウスを発進させた。家が遠ざかっていくのを見て、凛奈は心臓が跳ね回るのを手で抑え込むように、胸に手を当てた。信じられない。竹尾と安積がこんなことを簡単に許すなんて。本当に、辞めてしまったのだ。だとしたら、ザッキーも知っていたのだろう。お別れの挨拶すらできなかった。わたしの人生に登場する人間は、そうやって出て行く決まりがあるみたいだ。ポケットの中に収まるスマートフォンに触れながら凛奈が窓の外に目を向けたとき、姫浦は言った。
「護衛の方々ですけど、何人組か知っていますか?」
「三人かな。四人目はもう死んだけど、恩人だからいることにしてるって、ザッキーが言ってた」
「ザッキーというのは、小崎さんで合ってますか?」
姫浦がバックミラー越しに目を合わせてから言い、凛奈はうなずいた。姫浦は視線を前方に戻すと、呟くように言った。
「四人目がいないのなら、心配は無用です」
頭の中に、様々な情報がぐちゃぐちゃに入り混じっている。駅の裏側から町田家まで続く路地を早足で歩きながら、小崎は汗を拭った。これは、凛奈の言っていた『精神的発汗』なのだろうか、全身がべたついているように感じる。
家の外周を囲むブロック塀の前に辿り着き、小崎はベルトの後ろ側に挟んでいるアンダーカバーの位置を確認した。一応、用心しておくべきだ。それが自分の命をここまで繋いできたのだから。市街地で発砲するつもりはないから脅し程度にしか使えないが、それは相手も同じ条件のはずだ。サプレッサーでも持っていない限りは。小崎はWifiルータがいつも反応する辺りで足を止め、スマートフォンを取り出した。電波は出ていない様子で、接続は切り替わらなかった。それよりも気になるのは、全体的に窓が暗いことだ。小崎は玄関ドアまで辿り着き、セキュリティ装置が解除されていることに気づいた。防犯カメラの録画ランプすら、消えている。
後ろを振り返って人影がないことを確認すると、アンダーカバーをベルトから抜いて右手に持ち、小崎は家の中へ入った。全ての電気が消えている。靴を脱いでそろそろと廊下を進み、カーテンに合わせて歪んだ光の先に横たわる家政婦に気づくなり、駆け寄って体を揺すった。家政婦はすぐに目を覚まし、小崎の顔を見てびくりと肩をすくめた。
「小崎さん、侵入者がいます」
「大丈夫か? 何をされた?」
「分かりません。後ろから羽交い絞めにされて……、気絶したのだと思います」
家政婦はそう言うと、よろけながら立ち上がり、重大なことに気づいたように目を丸くした。
「部屋の電気が……、点けないと」
そう言ってスイッチをぱちぱちと触り、明かりが一切点かないことに呆然としている家政婦から目を離し、小崎は二階を見上げた。凛奈が密かに管理するこの家で、偶然電気が消えることはない。その主が電気を消すことに耐えられないのだから、よほどのことがない限り、この家の電気は点いたままになっている。
つまり今日、起こるべくして起こったのだ。