Zealots
そして、稲場の組織に入った年に、凛奈が生まれた。稲場は一般企業のような仕組みを作り上げていて、元フリーランスの身には中々馴染みづらいものがあった。組む相手も選ぶことができないし、拒否すればどんな理由があったとしても、言い出しっぺが悪者にされる。唯一拒否することを許されたのは、三回組まされた姫浦だけだった。あの女の横にいると、いつか死ぬ。実際、三回目は死にかけた。そのときの相手は、三人。出てきたところを蜂の巣にするだけだったが、段取りがそっくり入れ替わり、そいつらは出てこなかった。死に近づくときは、大抵そうやって見込み違いのことが起きる。生き延びるにあたって大事なことだが、それが別の人間に引き継がれることは少ない。何故なら、ほとんどの人間はそこで命を落とすからだ。
だから、理性に従って帰ろうとした。聞いていた話と違うのだから、粘る理由はない。
しかし、姫浦は諦めることなく自分から向かい、二人を見つけて殺した。三人目は一度隠れたが、散弾銃を持って帰ってきた。そしてその銃口は、後から入った自分の方を向いていた。入るときに構えを下げていた自分にも落ち度はあるが、あの真っ黒な銃口は、二度と思い出したくない。姫浦はナイトホークT3を持っていたが、弾は最初の二人に撃ち尽くしていた。
銃を持ち上げる時間はなく、姫浦は弾切れ。ほとんど全てを諦めかけたとき、姫浦は テーブルの上に置かれた黒電話をコードごと引き千切って持ち上げ、三人目の頭めがけて投げた。その頭が甲高い衝突音と共にのけぞり、こちらが銃を持ち上げるだけの時間を稼いだ。しかし、散弾銃は姫浦の方を向いていて、その銃口が光るのと自分が三人目の頭に一発を撃ち込んだのは、ほぼ同時だった。
『助かりました』
姫浦はそう言ったが、散弾銃から放たれたバックショットの一部が耳に当たり、血が流れ出していた。そして、周りの髪は引き千切られ、焼け焦げていた。その様子を見たとき、もう組めないということを確信した。自分がいかに脆い存在かということを、思い知らされたからだ。あの散弾銃の銃口と対峙したとき、自分は一度死んだのだ。弾を撃ち尽くした状態で、散弾銃を持った男めがけて黒電話を投げる度胸も、自分にはない。
引退のことを考え始めたのはその頃で、凛奈は四歳だった。好美について回り、自分の体よりも大きな電子機器に見入っていた。そこから四年間、自分が稲場の組織で仕事を続けられたのは、ある意味奇跡だ。引退というとんでもない後ろ髪を引かれながら、どうにか仕事を完了させてきたのだから。
いよいよ稲場に話を通して引退が決まったとき、首を横に振ったのは好美だった。あの、フォードトランジット。自分たちが若かった頃に、それを用意した雇い主。そこから、また仕事を請けてほしいという連絡が来た。付き合いは、切れていなかった。好美が、日本に戻ってからもフリーランスの仕事を請け続けていたからだ。断ると、仕事の依頼はあっさりと脅迫に変わった。
今でも後悔が残るとすれば、薄々気づいていながらも、好美の内職を止めなかったことに尽きる。実際、その恩恵は大きかったし、家も考えていたより立派な一戸建てが買えた。それに、好美には恩を忘れないという『流儀』があった。
だから今、この世にはいない。その骨は、実家にある。
流儀がないというのは、それぐらいに大事なことなのだ。
アウディA8を車庫へ入れたら、小崎の仕事はそこで完了。家に入ることはなく、電車で帰っていく。凛奈は駅の方向へ歩いていく小崎を見送り、家の中へ戻った。やることは、いつも決まっている。それは、竹尾と安積の居場所を確認することだ。二人が家の中にいることは稀で、大抵は出入口の近くか、外周を歩いている。もし、外周を歩いているなら、タブレットで分かる。物置の裏に隠したWiFiルータが、スマートフォンの通信を引っかけるからだ。竹尾と安積は、お互いにGPSの情報をやりとりしている。二人で同じ行動をとることはないけど、もし電波を拾えば少なくともひとりの居場所は分かる。今日は反応がないから、二人とも出入口付近にいる。だとしたら、ひとりが表、もうひとりが裏という配置だ。
凛奈は冷蔵庫からペットボトルのライチジュースを取り出すと、がらんとしたキッチンでひと口飲んだ。今日は、家政婦さんコンビの片方が休みの日だ。香水の微かな香りから判断すると、若い方が来ている。早足で二階の自室に上がり、タブレットをベッドの上に放ると、凛奈はパソコンの電源を入れた。ザッキーのスマートフォンから集めた情報に、竹尾と安積が自前のルータを通ったときの情報。断片ばかりだけど、繋ぎ合わせると色々なことが見えてくる。
外の世界との接点は、この三人だけだ。もしくは、家の裏を通りがかって偶然このルータの存在に気づき、通信量を節約するために利用した人たち。凛奈は日課になっているチェックを終わらせると、ライチジュースをひと口飲んでから呟いた。
「つまんな……」
ここ一週間、見事に動きがない。嫌気が差して、辞めたのだろうか。何度か盗み聞きしたことがある。子守はうんざりだと。だとしたら、もう誰もいない可能性だって、ゼロではない。凛奈はベッドに座ってタブレットを太ももの上に乗せると、数えきれないぐらい開いたフォルダに指を向けた。九歳だった、小学校三年生の夏休み。数十枚の写真は、旅行先で撮ったものだ。岩場がごつごつした海の前で、ピースサインをするわたし。そして、その隣には母がいる。町田好美。名前が変わる前は、戸川好美。その名前は、インターネットのどこを探しても、出てこない。自分の記憶と、通りすがりの誰かが撮ってくれたこの写真が全てだ。
口癖は、『私が大切にしていたものは、全部凛奈にあげるからね』
死んだ後の話をしていると思って、小さい頃は聞くのを嫌がった覚えがあるし、半分冗談のように思っていた。現実の話をしていることに気づいたのは、その後に『CDとか、本とか。お金も。わたしが凛奈に引き継ぎたいことは、全部』と続いたときだった。
最後の旅行。それまでは海外旅行が多かったけど、国内だった。母にこの場所を選んだ理由を尋ねると『生まれた場所だから。実際には、麓の方だけど』と返ってきた。じゃあわたしが生まれた場所はどこなのかと訊くと、母は笑いながら自分のお腹を指差して『ここ』とだけ答えた。この時期に母が旅行を計画したのは、意外だった。父が仕事で二週間缶詰めになっていて、揃わないということが初めから分かっていたから。岩場だらけの景色にどこまでも続く海は、二人だけのものだった。帰り際に、母はライトブルーのリボンクリップをくれた。つけてみると子供には大きすぎて、頭の後ろから羽根が生えたように見えた。
『いつか、ちょうどよくなるから。それまでは、分解して壊さないでよ』