Zealots
凛奈は同級生を何人か見送り、首を伸ばした。つま先立ちになってしばらく経ったとき、ランドローバーの後ろにシルバーのアウディA8がちらりと見えた。自分から車の方向へ歩くと、小崎が運転席から降りてきた。いつも通りスーツ姿で、見た目はそんなにかっこよくない。でも、かっこよくないから車の中に乗っていてと言うのは、かわいそうな気がする。凛奈は、小崎が後部ドアを開けたのをするりとかわして、助手席に乗り込んだ。これも、いつものやり取り。何度かやっている内に、助手席が定位置になった。
運転席に戻った小崎の方を向くと、凛奈は言った。
「よろしくでーす」
「はい、今日はどこにいるんだ?」
小崎はバックミラーの角度を調節しながら、言った。凛奈は自分の居場所を示す赤い点を見つめながら、目を細めた。
「ハートフォード、コネチカット。アメリカかな」
「へー、そりゃあまた遠くにいるんだなあ」
小崎はそう言うと、笑った。凛奈は、常に持ち歩くように言われているGPSビーコンに細工しているから、いつも見当違いの場所を指すようになっている。先週はずっと、カザフスタンにいることになっていた。そういった妨害工作の全てを停止させるためのコマンドもあるらしいが、凛奈は自分の声でしか反応しないように設定している。
「まあ、ここにいるんだけどね」
凛奈はそう言うと、リュックサックからタブレットを取り出して長いコードを繋ぎ、先端の輪になった部分を小崎に差し出した。
「はい。これ、つけてくださーい。手首じゃなくて、手の平に巻いてほしい」
小崎はハンドルに置きかけた両手を離してうなずくと、左手に巻いた。
「新作?」
「うん、生体モニター」
凛奈は浮足立った口調で言うと、タブレットの画面をじっと見つめた。何台か送迎の車をやり過ごした後、小崎はアウディのアクセルを軽く踏み込み、ランドローバーの脇をすり抜けた。新作の生体モニター。通販ページを開けば、メーカー品が選びきれないぐらいに揃っている。しかし、凛奈が取り寄せるのは、あくまでセンサーや基板、制御ユニットのような『部品』だ。市街地に出て片側二車線の道路に合流したとき、凛奈は首を伸ばして辺りを見回し、その過程でずれた銀縁眼鏡を押し上げながら言った。
「心拍たっか」
運動している最中のように、そのグラフは高い値を保っている。凛奈は小崎の手の甲をじっと見つめた。汗で少し光っているように見える。元々暑がりではあったと思うけれど、ここ一週間は特にそうだ。凛奈はタブレットの画面を切り替えて、グラフを眺めた。昨日完成した新作のモニターは、汗の成分を見るためのプローブ管がついている。画面を見つめたまま、凛奈は言った。
「怖い?」
汗には色んな成分があって、緊張したときに出てくる『手汗』なら、脂肪酸が含まれている。
「ザッキーの汗は、精神性発汗って言って、緊張しているときに出てくるやつだよ。だから、怖いことがあったのかなって」
凛奈が早口で続けると、小崎は首を傾げた。
「自分の汗がなんの汗か、考えたこともなかったな」
「でも、テストのときと体育のときじゃ、汗の感じが違うじゃん。爽やかさっていうか」
小崎は、中古車販売店のある交差点をいつも通りに左折すると、横断歩道の前で一時停止しながら、ようやく相槌を打った。
「言われてみれば、確かに」
「やっぱ、おかしいよ今日。よーし」
凛奈はシートを少し倒して体育座りになり、タブレットを目の前に掲げた。小崎は自分のスマートフォンが勝手に動画を再生し始めたことに気づき、ポケットを探った。昨日の夜に再生したばかりの、動物ドキュメンタリーが流れている。
「なんでだよ。パスワード変えたのに」
凛奈は再生を止めると、シートに体を預けてげらげらと笑った。
「意味ないって。パスワードをこれに変えましたって、わたしまで通知が来るだけだから。ザッキーのスマホの中身は、わたしのものだよ」
「勘弁してくれよな」
小崎はスマートフォンをセンターコンソールに置くと、凛奈がまだ注目していることに気づきながら、目を逸らせた。そして、しばらく間を空けた後、小さく息をついてから白状するように言った。
「ちょうど学校に着く手前で、猫が飛び出してきて危なかったんだ」
「轢かなかった?」
「轢いてたら、もう嫌な汗はかいてないよ」
凛奈はその返事を聞いて、口角を上げた。この業界に身を置く人間の道徳観はかなり変わっていて、教科書には載っていない類のものだ。とにかく、結果が出てしまったことに対して、悔やむことはない。その忘れるスピードの速さは、どう頑張っても真似できそうにない。猫にしても、轢いて死んでしまったら最後、その記憶はあっという間に消し去られる。父が、まさに同じメンタルの持ち主だった。引退する前から家に居つくことなく、自分がいないことに対して、ありとあらゆる代替手段をお金で用意していた。
母が死んだときも、その代替手段は極端だった。家は一度空っぽになり、葬儀の手続きも含めたすべてが、気づいたときには終わっていたのだから。
町田家は共働き。母は標的の素性を調べ上げるプロで、その後は父が片付けていた。その目的は、報酬と引き換えに人を殺すこと。
二人が現役時代に稼いだそのお金で、誰もいなくなった町田家は回り続けている。
長年同じ仕事をしていると、矜持やこだわりといったものが、関節病のように湧いてきて、いずれ自分を殺す。自分がやってきたのは、そういう芽が出たら真っ先に摘むことで、流儀を持たないことだった。手にした武器、訪れた機会、外れた当て。そういった全てのことを平らげて、その柔軟さが今日まで自分を殺さなかった。
正確に言えば、流儀を捨てることで自分だけが生き残れた。
町田は、一戸建ての広いリビングで自分の右手を見つめた。今の自分が信じられるのは、バックショットが四発装填された短銃身のレミントンM870と、ソフトポイント弾を装填してあるS&WM19キャリーコンプだけだ。殺人が金に替わるということを学んだときは、二十二歳だった。それから八年間フリーランスでキャリアを積み、海外の仕事で戸川好美と出会った。好美は、電子機器が満載されたフォードトランジットを自分の体の延長の様に操り、『五秒後』と無線で伝えてきた。そして本当に、ちょうど五秒後に標的が現れた。それは、GPSの測位精度や無線の伝達速度といった全てを考慮に入れた、完璧な五秒だった。一杯おごると誘い、車を処分した後バーで長々と話し込んだ。付き合い始めてから分かったことだが、好美は日本に戻ることを考えていたらしく、自分も同じようにすることを決めた。
そうする上で、自分には絶対に譲れない条件がひとつだけあった。
それは、お互いに海外勢の付き合いを切るということ。新しい組織と利害関係が生まれれば、まずい立場に置かれるのは分かりきっているからだ。この業界は元から狭いし、長く生き延びるほど、その輪は狭くなる。