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京都七景【第十八章】後編

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「え? わっ、いっけない! お祖父ちゃんがもうすぐ帰ってくる! 私のケガしてるところなんて見たら、何をしだすかわからないわ! 見つからないうちに、すぐ帰らなきゃ」

 里都子さんは、さっと立ち上がると、椅子にかけてあったコートを羽織り、フランス窓をガタガタ開けて、外に飛び出して行った。
 砂利を踏む足音が、ざくっ、ざくっ、と遠ざかって行く。それが、ひとしきり止むと、またざくざくと今度は小走りに音高く響いて来る。妙だなと思った矢先に、フランス窓がガタガタと軋んで、小さく開いた暗闇の中に、再び里都子さんの顔がのぞいた。おれは息を呑んだ。また何かあったのか? 

「まだ、帰ってなさそうよ。窓に明かりがついてないもの。それで、少し時間がありそうだから、また戻って来ちゃった。
 言い忘れたことがあって。今夜はいろいろありがとう、本当に感謝してます。でも、このことは、お祖父ちゃんには内緒にしてね。時期が来れば、必ず私から話すので。
 それと、もう一つ。厚かましいお願いがあるの。これからも、時々今夜みたいに話を聞いてもらえないかな? 野上さんに話して少し眠ったら、心が楽になって、何だか生き返ったような気がしたのよ。
 なるほど、自分のことが素直に人に言えるって、いいえ、自分の話に耳を傾けてくれる人がいるって、こんなにも心が安らぐものなんだって、今日、しみじみそう思ったわ。
 気晴らしとかでは決して得られない、本ものの時間を過ごせたような気がする。なんかこう、心の奥深く降りて行って、自分の本心に向かい合えたような…
 だから、お願い。また話に来てもいい? 返事は、この次、真如堂で会った時でいいから。私、年末まで、まだまだ真如堂に行く必要があるの。野上さんも時々は来るんでしょう? もちろん、野上さんに時間のある時でいいから。でも、急いでても、声くらいはかけてね。声だけでも、少しは元気が出るから。敬遠は、なしよ。それだけ言いたかったの。じゃ、急ぐから帰るわね」

 そう言うと、里都子さんは扉をガタピシと閉めて、急いで家へ戻って行った。おれは、こんな悲劇(?)の最中に、里都子さんの最後の言葉を少し嬉しく思う自分を、罪作りとも、罰当たりとも、また健気とも思った。
 だが、いかにおれが健気に頑張ろうとも、運命の女神に、その攻撃の手を緩める気遣いのなかったことは、これからする話で得心がいくものと思う。


〈5〉

「それからの里都子さんとおれは、真如堂で会って、よく話をするようになった。ただし、お互い、医院後継候補の件については努めて避けるようにし、たいていは無難な、それぞれの日常生活についての話題を語り合うことが多かった。
 しかし、日常的に、心に不安を抱えている里都子さんを相手に、いつまでもそういう普通の話を続けることはできなかった。優男が候補者を降りたときから、後継候補者選びはより複雑さを増していたから。
 里都子さんは、優男が許嫁から降りたことにだいぶ力を落とした様子だった。しかも古川医師と優男が、一言の相談もなく、お金で問題を解決したことに我慢がならなかった。真如堂で話しても、いつもそのことが頭を離れないらしく、話の途中で、脈絡もなく、急に優男や古川医師に怒りを露わにしたり、またある時は、涙を浮かべて黙り込み、うつむいたまま時間だけが過ぎて行くようなことが次第に増えて行った。
 どうやら里都子さんは、誰にも言わなかったが、心ひそかに、優男を立ち直らせることに生きがいを感じていたらしいのだ。そのことは、古川医師のやり方に対する不満を聞いているうち、おれにも痛切に感じられた。彼女は、自分には、優男を立ち直らせる力が、まだ残っていると信じていた。だから、優男への古川医師の宣告をもう少し待ってほしかったのだ。
 しかし、前にも言った通り、利害得失には機敏に対応し苛酷に実行するのが、古川医師の経験則である。古川医師にしてみれば、本来なら、四年目が過ぎた直後に、今回の判断をして当然であるのに、十一月まで判断を保留したのは異例中の異例なのだ。もちろんそれは孫娘の気持ちを大切にしたからだろう。
 それから、しばらくして新しい展開があった。里都子さんの気鬱状態を見かねた古川医師が、里都子さんに、正気を取り戻してほしい一心で、こんな打ち明け話をした。
 古川医師は、四年が過ぎたところで、いつまでも合格できない優男の学業態度に疑念を抱き、里都子さんには悪いが、興信所を雇って優男の素行調査をしたそうだ。
 その調査結果や惨憺たるもので、素行の悪い予備校仲間とつるんで、麻雀やギャンブルにのめり込み、それだけならまだしも、親の金を使い込み、友人たちには誰彼となく借金し、借金が嵩めば踏み倒すことが常態となり、結局両親がその尻拭いに回ったが、ついには両親もたまらず、優男を勘当したという始末。
 しかし、そんなことがあろうと優男のギャンブル熱は治まらず、いよいよ仲間同士、恐喝まがいのことまでしているという、まことしやかな噂も聞こえて来た。さらに、極めつけは、仲間内に、ひとり小悪魔的美女がいて、その美女が、育ちの良い優男に惚れ込んでいるというのだ。女は、面倒見はいいらしく、仲間のみんなからも好かれてはいるが、本当に好きなのは優男だけで、その女が、いつも優男につきまとい、優男の行動に可愛らしく注文をつけて唆すらしい。もちろん優男もそんな健気な美女が憎かろうはずはなく、美女の言うがままに振る舞ってしまう。しかも、美女は、世情一般の道徳にまるで関心がないために、目下、優男は、ゆっくりとはいえ確実に、いよいよ悪い方へと坂を転げ落ちて行く途中だという。
 里都子さんはこれを聞いて、二つのことに激怒した。

 一つは、古川医師が、里都子さんと優男を信じることなく、興信所に素行調査をさせたことである。しかし、素行調査のあまりの内容を知って、里都子さんの激怒は、どんどん萎んでしまった。
 二つ目の激怒は、優男にである。昔は、もう少し気骨のある友人だと思って信頼していたのに、この為体はどうしたことか。

 ここで、あえて注釈を入れると、なにも里都子さんは、優男が小悪魔的美女に乗り換えたことに激怒したわけではない。もちろん、心の隅に、いささかプライドを傷つけられたという思いはあったかもしれない。
 だが、本筋の理由は、優男が優柔不断な態度で、嘘をついたり裏切ったりしたことにある。前にも言った通り、里都子さんは正義感が強く、何事にも正々堂々とぶつかって行くのを潔しとしている。
 だから、優男のごとく、判断と責任を人任せにして、利益だけは得ようとする卑怯な手合いは、里都子さんの倫理観と必ず衝突してしまう。里都子さんは優男の本性を知って、激怒し、失望し、そんな男を信頼した自分が許せなくなって、また激怒したのである。
 このことがあってから、里都子さんは、ますます元気をなくして行った。それと反比例するように真如堂で会う回数は増えて行った。おれは、会うたびに声をかけるようにしたが、なかなかはかばかしい返事は得られなかった。それでも、ため息混じりに出て来る、切れ切れの言葉をつなぎ合わせてみれば、里都子さんの心境がぼんやりと想像できた。