京都七景【第十八章】後編
「な、な、何か誤解があるようだけど。ゲンシというのは、将来何かするときの資金のことだよ」
「いいわよ、いいわけなんかしなくて。どちらにしろ、お金じゃないの? やっぱりあなたはお金なのね。要は、体のいい手切金ということじゃない。まずは祖父が差し出し、さっきの約束通り、それをあなたが受け取った、そういうことよね?」
「そうだよ。せっかく出してくれるというんだから、ぼくに断る理由はない。ぼくも今回の件では影響を受けた本人だから、少しでも原資を負担してくれるというなら、感謝の言葉しかない。自分の身からでた錆とはいえ、もはや実家からも相手にされなくなって、露頭に迷う寸前だったんだ。だから古川さんの申し出を喜んで受けたっていいじゃないか。それのどこが悪いんだい?」
「どこも悪くないわ。これまであなたがしてくれたことに、私は心から感謝している。だって、誰にでもできることじゃないもの。だから、それだけのものを受け取るのは当然というか、自然なことだと思う。でも問題は、その使い方よ」
「大丈夫だよ、古川さんと相談して、一括じゃなく定期的に受けとることにしたから」
「ご両親は、このことを知っているの」
「うん、古川さんが間に立って話をつけてくれたからね」
「祖父は、頼めば何でもやってくれるのね。その心の下に何があるか、あなたは分かっているの?」
「ああ、分かっているつもりだ。早くぼくを遠ざけて、次の候補者を探し出そうとしている」
「それを分かっていて、あなたは悔しくないの? 軽く扱われているとは思わない?」
「どうして? ぼくは、肩の荷が下ろせて、その上、慰労金までもらえるんだ。感謝しかないじゃないか」
「あなたって、ほんとうに、金、金、金なのね! ほかのことは考えられないの?」
「ほかのこと? 差し迫って金が必要なときに、金以外の何を考えればいいんだ?」
「まさか、またギャンブルに負けて借金が差し迫っているんじゃないでしょうね?」
「君には関係ないだろう? もう話のけりはついたんだ。いつまでも母親みたいに、ぼくを束縛するのは、やめてくれ」
「何ですって! 私がいつあなたを母親みたいに束縛した? 金を貸してくれと頼みに来たから貸してあげた。それが束縛なの? しかも、貸したら、あとはもう梨の礫(つぶて)じゃない」
「うるさい! いいかげんにしてくれ。そういう責め方をするところが、母親みたいだと言ってるんだ。何を言っても、もう手遅れだよ。これでお別れする。さようなら」
「待って! 話は、まだ終わってない」
そう言って、里都子さんは優男の片腕をつかんだ。優男は、その腕を力いっぱいに振り払った。その反動で里津子さんは横倒しに倒れ、それを部屋から飛び出した俺が目撃したというわけだ。
里都子さんは、ここまで話すと、再び両手で顔を覆い、うなだれてしまった。おれは、里都子さんが平静を取り戻して再び話し出すのを待つつもりで、その横顔を見守った。
しかし、いつまで見守っても、里都子さんの口から言葉は出て来ない。変だな、どうしたんだろうと思っているうちに、徐々に里都子さんの身体が傾いで、頭がおれの肩に寄りかかってくる。少し前まで顔を覆っていた両手はゆっくりと揃えた膝の上へと落ちてゆく。
もしや、意識を失ったのでは? そう考えたものの、おれが急いで立ち上がれば、里都子さんは椅子から床に転げ落ち、頭を強打してしまうかもしれない。おれは、里都子さんの頭を肩に載せたまま、やや前屈みになって、下の方から里都子さんの横顔を伺った。
目は閉じている。呼吸は大丈夫か? しばらく見つめていると、スウ、スウと規則正しい呼気が小さく聞こえている。
ああ、泣き疲れて眠ってしまったんだな。そう判断ができたので、それなら気持ちが落ち着くまで、寝たいだけ寝ればいい。こんなときは、まず眠るのが一番。そう思って、おれはしばらく肩を動かさないことにした。
しかしそのうちに、温かい石油ストーブの前のソファに座って、まるで電車で隣り合わせた者同士のごとく、女が男の肩に頭を預けて眠っている姿が(これは紛れもない事実だけれど)、いったい第三者の目にどう写るかということに思い至ると、にわかに、おれの背筋に緊張が走った。
こんなときに限り、古川医師が訪ねて来て(可能性はかなり低いとはいえ)、この光景を目の当たりにしたら、絶対におれは誤解されてしまう!
「そうか、そういうことだったのか! よくも、よくも、許嫁から孫娘を奪ったな、文学部生のくせに。叩き出してやる!」そんな妄想劇のセリフさえ浮かんでくる。
このままではいけない。もう少ししたら、目覚めてもらおう。だが、せっかく眠っているのに、それは冷たくないか? いや、いや、余計な誤解を招いて事態をこれ以上混乱させたら、そのほうが迷惑だろう。
何か合法的に目を覚ましてもらう方法はないものかと、姿勢は動かせないながら、頭だけはフル回転させてみる。が、しかし、どうにもうまい方法が見つからない。下手な考え、休むに似たりだ、仕方がない、そう居直った。どうせ電車の中みたいに偶然隣り合わせただけなんだ。そう思った瞬間、あることが閃いた。
そうか、電車の中でよく見かける光景を作り出せば、仮に怪しいと思われても、決定的な証拠にはならないのではないか。うん、そうだ、そうだ。この場を動けない以上、とりあえずそのやり方しかない。ではどうすればいいだろう? おれは、電車の中で、うつらうつら眠る隣人に寄りかかられた経験を思い浮かべた。あの時はどうしていたか?
何のことはない、おれはいつだって素知らぬふりして本を読んでいたではないか。この状況でも、隣で無関心に本を読んでいれば、二人の間に何かあるなど(実際にないのだから)古川医師に勘ぐられるはずもない。おれは、そう考えると、手近に本はないかと視線を巡らせた。
ある、ある。目の前のテーブルに、飛び出すとき無意識に置いた、読みかけの『パルムの僧院』の上巻があるではないか。しかも、うまい具合に、テーブルから半分身を乗り出してくれている。それを右足の先に乗せて足もとまで運んでおろせば、何とか手に取れそうである。そう見込みを立てて、おれは『パルムの僧院』を手に入れるべく、いや、足に載せるべく、右足を伸ばした。
幸い、本はおれの足先に載った。それを、膝を宙に浮かせまま、ゆっくり運ぼうとして、足の向きを変えたその瞬間、無理な姿勢がたたったのだろう、大腿部に激痛が走り、激痛は震えとなって本に伝わり、本はバランスを失って、あえなく床にパタンと落ちた。
その音が、おれを救ってくれた。急に肩が軽くなる。すなわち、その音に反応した里都子さんが、はっと身をおこしたのだ。
すぐに、里都子さんは、ここはどこかと確かめるように上下左右に視線を巡らし、最後に右隣にいるおれの顔と出会って、やっと状況が飲み込めたというように、顔に笑みが広がった。こんな状況には不釣り合いだが、おれまでほっとする安堵の笑みだったと、今のおれはそう思う。
「ごめんね、話の途中で眠っちゃったみたい。今、何時ごろ?」
おれは腕時計を見た。
「もうすぐ十時ですね」
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学