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京都七景【第十八章】後編

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 なら、残っているのは君のお祖父ちゃんしかいない。古川医師は、それはそれは、喜んでくれるだろう。娘のできなかったことを孫娘がやり遂げてくれるのだから。
 でも、りっちゃんは、それで自分の今までの人生も、これからの人生も、満足できると胸を張って言えるだろうか? おそらく胸を張って言えるのは、君のお祖父ちゃん、古川医師しかいないだろう。
 君にだって、病院を継ぐこと以外に何かやりたいことがあるんじゃないのか? 少なくともぼくは、そう感じる。どこにそんな証拠があるのかと君は問うかもしれない。証拠はある。ぼくは二つあると思っている。
 一つは、お母さんが亡くなってから、君は学業に手がつかなくなっている、ということ。それぞれの事情は違っても、この失速は、ぼくの医学への失速と同じもののように見える。つまり目標を見失ってしまったということだ。
 もう一つは、これまでの目標に、何のためらいもなく進むことに、君が不安や恐れを抱き始めたということだ。どうしてそんなことが言えるのか? 
もし君の目標と希望が完全に一致していれば、君は行動するのを恐れたりためらったりする人ではないからだ。ぼくが脱落した時点で、すぐに次の候補者を医学部生の中から選ぶこともできたはずだ。
 失礼な言い方だけど、君が声をかければ断る人はまずいない。それなのに、わざわざ、状況を悪化させて箸にも棒にもかからなくなったぼくに、再び声をかけてくれた。これは、ふだん、不安や恐れがないときの、りっちゃんが取る行動ではない。
 だとしたら、もしかして、りっちゃんはぼくに首ったけなのか? いやいや、そんなことは間違ってもあり得ない。だって、りっちゃんは自分が恋愛に溺れることを恥とさえ考えているのだから。
 なら、答えは一つしかないだろう。つまり、りっちゃんは自分に自信が持てなくなったんだ。君は、自分で正しいと判断したことは、誰が反対しようと、必ずやり遂げるべく脇目もふらずに努力する。そういう時は人に頼ったりしない。たぶん自分しか信じられないんだろうな。ぼくは、りっちゃんのその姿を見ると、ある種の痛々しさを感じることがあるよ。もう少し、人に頼れれば、あんなに疲れ切ってしまうことはないのになと。
 でも、君は頼らない。その頼らない君が、ぼくを頼ろうとしている。これは異例なことだ。こんな優柔不断で意志薄弱の人間に、そこまで執着する必要なんてないじゃないか。それなのに、君はいろいろ理由をつけて、ぼくの説得を試みた。きっと、慣れたものに寄りかかりたくなっているんだよ。これは、りっちゃんの心が弱っている、あるいは目標から気持ちが逸れ始めている、証拠だと思う。
 りっちゃん。こんな無責任なぼくが言えることじゃないけど、敢えて言わせてもらうよ。時が経てば、人は変わる。自分が気づかなくても変わるんだ、ぼくのようにね。
 でも、それは裏切りとか、心変わりとか、そういう悪いことじゃないと思う。時が経てば、経験は増えるし、視野も広がる。欲も増えるし、後悔も多くなる。そういう中で、人間は自然に、変わって行かざるを得ない。いかに固い意志で同じことを続けようと、人間は成長するし、堕落もする。そうして、今まで見たこともない景色が見えてくる。そういう景色の中で、前と同じ意志が、新しい現実と相反してしまうことだって十分にあり得る。だから、りっちゃんには、恐れずに、自然に生まれてきた、自分の新しい気持ちに耳を傾けてほしい。その気持ちの中に、新しい打開策のヒントが含まれているかもしれないからね。ぼくの言いたかったことはこれだけだ。じゃあ、ここでお別れしよう」
「もう、アドバイスはしてくれないの?」
「ぼくには、君にアドバイスする資格なんてないさ」
「どうしてそんなことを言うの? 今だって、ちゃんとアドバイスしてくれたじゃない?」
「それは、これまでのぼくの経験から、りっちゃんが自己犠牲になる必要なんてないんだって、ひとこと言っておきたかったからさ。誰かがそれを君にはっきり自覚させておかないと、君はあえて自分を不幸にする選択をしてしまいそうだからね。何しろ、その責任感の強さが、君の人生を台無しにしてしまうかもしれない。そんな予感がした。
 生憎、そういうことの言える立ち場には、ぼくしかいないようだった。そこで、不肖このぼくが、その役を買って出たというわけさ。
 でも、ここから先は、ぼくにとっても未知数だから、あとはりっちゃんに判断を任せるしかない。自分の内心の声にようく耳を澄ませて、いやなものは、いやだとちゃんと言うんだぜ。じゃ、ここでお別れするよ」
「ねえ、少しだけ、あと少しだけ、待ってくれない? お祖父ちゃんと、お祖父ちゃんとは、どんな話をしたの?」
「君はまだ何も聞いていないのかい?」
「ええ、何にも」
「なら、直接お祖父ちゃんに聞いたほうがいいな。そのほうが、誤解が少なくて済む」
「あなたから聞くと、私が誤解するのね?」
「りっちゃんらしい、厳しい切り返しだね。もちろんそんなことはないさ。でも、どっちから聞くかで、君の印象は、大きく変わってしまうかもしれない」
「それってどういうこと? 事実は一つしかないはずでしょう?」
「同じことを聞かされても、ぼくらは、その人の生活態度を見て、信じたり信じなかったりするだろう? あれと同じだよ。まあ、ここで議論していても始まらないから、ものは試しで、ぼくから話すことにしよう。できれば誤解はしないでもらいたいものだが」そう言って、優男は、先日古川医師と取り決めたことを話したのだそうだ。

「ぼくは自分が楽しむことばかりに気を取られて、りっちゃんの気持ちにだんだん共感できなくなってきた。もっともっと楽しいことやスリリングなことに自分を賭けてみたいと思った。だから、すまないけれど、ぼくには君が重荷になった。
 古川さんは、そういうぼくの気持ちをよくわかってくれた。そして古川さんの方から、ぼくが許嫁から降りることを提案してくれた。ぼくは、正直そのひとことにほっとしたよ。もう、医学部を受験しなくていいんだと。だから、もう、君の前に現れたりはしない。古川さんとも、そう約束した」
「祖父と約束したって、どういうこと? 何を約束したの?」
「今も言っただろう、君の前には、もう現れないってことをさ」
「ただ、現れないってことだけを?」
「ああ、まあ、それから、許嫁に関する件を持ち出さないことも」
「許嫁に関する件を持ち出さない? もし、あなたが持ち出したらどうだっていうのよ?」
「それはその、ぼくが持ち出せば、新しい許嫁に不愉快な思いをさせるかもしれないし、揉め事だって起きるかもしれない」
「だから、あなたは約束をした?」
「ああ、そうさ」
「何の見返りもなく?」
「あ、いや、そういうわけじゃない、時々援助してもらう約束で」
「それって、お祖父ちゃんから切り出したのよね? ね、そうなんでしょう?」
「いや、そうだとも言えるし、そうでないとも言える」
「じゃ、お祖父ちゃんは何を援助するって言ったの?」
「ゲンシの一部を」
「原子の一部? 分かった、金、銀、銅のことよね。鉄は入(はい)らないんでしょ?」