京都七景【第十八章】後編
古川医師は答えた。そういうことなら、里都子のわがまま、ではなく、私のわがままで、ここまで君に迷惑をかけてしまったことを、心からお詫びしたい。今日までありがとう、そして私たちを許してくれたまえ。
そこで、相談なのだが、これまでの君や君のご家族にご協力いただいた感謝の気持ちを何かの形に表したいと考えている。今聞かせてもらったが、君の将来の希望は、資本家になることだそうだね。そういうことなら、今回我が家の一件で一肌脱いでもらったお礼として、失礼だが、君の資本の原資の一部を、私に負担させてはもらえないだろうか?
優男は、このとき目の色が変わったらしい(古川医師後日談)。
ええ? いいんですか? なんか悪いですね。でも、ぼくを信じてそうしていただければ、決して古川さんに損はさせません。きっと、功成り名を遂げた暁に、この資本を十倍二十倍にして古川総合病院に出資しますよ。約束します。本当にありがとうございます。
ご存知とは思いますけど、諸般の事情で、目下実家を勘当されたも同然の身の上なので、本当に助かります。よろしくお願いします。で、それは、いつ頃いただけることになりそうですか?
まあ、なんという優男のこの驚くべき豹変か! しかし、ここから先は、古川医師と優男の密談となって、里都子さんにさえ、古川医師はその内容を打ち明けなかった。これが後の(つまり今回の)災いの原因となったというわけだ。
優男と古川医師との密約を知らない里都子さんは、いつまで待っても埒の開かない優男の不決断の事情を探るべく、優男を真如堂に呼び出した。二人はそぼ降る雨の中で話を始めた。
まず、里都子さんが、優男の現状を糾問する。それに応じて優男は、古川医師に先日呼ばれたときの話を伝えて、やはり自分は、この件について適任ではないし、他にやりたいこともできたので、お断りすることにした。そのことについては、古川医師から何か聞かされていないかとたずねた。
里都子さんは、何も聞いてないと答え、少し黙ってから、それで、優男が医学に代えて本当にやりたいことはどんなことなのかと疑わしそうに質問した。
これについても、優男は、いささかも悪びれることなく、ビジネスの世界で成功して資本家としてやっていきたいのだと告げた。経済大学を受験する前後から実業家になる夢を持つようになり、医学とビジネスのどちらを選ぶか迷ったので、両方とも受けてみたが、里都子さんに、もう一度やり直してほしいと頼まれたときから、理由はよくわからないがビジネスの世界に進みたいという内心の声が、時が経つにつれて、いよいよ湧きあがって来て鎮まらないのだという。
「じゃ、あなたに希望を変えさせたのは私ってこと?」
「いや、それは全く違う。そのことは誓ってもいい。ぼくは、りっちゃんが好きだから、りっちゃんを助けたいと思うから、もう一度やり直すことを承知したんだ。だから、君のせいなんかじゃ、絶対にない」
「でも、それじゃ話がおかしいわ。いったいどういうこと? 私がだまされたの?」
「そうじゃないんだ。ぼくは君をだまそうとしたことなんて一度もない。できれば、この約束を最後まで果たしたいと強く望んでいたし、今も望んでいる。でも、どうしても、この心や身体がそちらへ向かおうとしないんだ」
「わかったわ。私がきらいになったのね」
「いいや、君のことは今でも大好きだよ」
「なら、どうして、一緒に進んで行こうとはしてくれないの? やる気をなくしたの?」
「ぼくの勉強と同じだよ。やる気はあっても、心や身体がどうしてもいうことを聞かない。一言で言えば、医学や人助けは、ぼくの性格や欲求に反してるというか、うむ、ぼくの気持ちになじまない、ないしは、しっくり来ない、ということなんだろうと思う。
君も知っているだろう、才能にあふれていて、この人なら、将来きっと、その道の立派な専門家になると嘱望された人が、その道は趣味程度にしておいて、はた目にはあまりふさわしいとは思えない仕事に精を出している姿を。でも本人はそれを天職と心得、心から満足しているんだ。
人間は、いや一般化するのはやめておこう。ぼくという人間は、だ。自分でも自分のことがよく解らない人間なのさ。だって、どうしてこうしたいのか、自分でも、はっきりした理由が言えないんだから」
「すぐには納得できそうもないけど、言いたいことは何だかわかるような気がする。私も、あなたを捕まえどころがないと思えることが、時々あるもの。
でも、私は簡単に諦めるわけにはいかないの。これを最後に、本当に最後にするから、あなたの本当の気持ちを、あなたの口から直接聞かせてほしい。そうすれば私も諦めがつく。これが最後よ。私がもう一度やり直してほしいと言ったら?」
「すまないが、それはできない。理由はさっき言った通りだ。君には曖昧な理由に聞こえるかもしれないけど、それがぼくの内心の声だから、もはや以前のぼくに戻ることがないのが自分でもはっきりとわかる。だから、確信を持って「できない」と答えられる。
お別れにひとこと言わせてもらってもいいだろうか。たぶん今まで以上に君を悲しませることになるだろうが、やはり、ぼくの内心の声が、今でなきゃいけないと言っている。だから、悪いけれどその声に従わせてもらう。
後になればなるほど、りっちゃんが後戻りできなくなるだろうことを危惧するからだ。別に親切心だけで言うわけじゃない、もちろんそれも人並み以上にあるつもりだよ、それは疑わないでほしい。だがそれにも増して、ぼくは、君の中にある、ぼくと同じものを救いたいという気持ちがあるからだ。
いいかい、じゃ、言うよ。りっちゃんも、そろそろ気づいたほうがいいんじゃないかと、思うんだ。この件では、君が一番の犠牲者だということを。そんなことは、聡明で察しのいい君のことだから、きっと初めからすでに納得ずくのことなのかもしれない。だが、お母さんが亡くなり、ぼくが許嫁から脱落した今、こんなことをし続けることが、君にとっていったいどんな意味があるというんだい? 一度、立ち止まって、よく考えてはどうだろう。責任を外れたぼくが言うのも、心苦しいけど、もうやめてもいい頃じゃないだろうか。
確かに、十三歳の時から、古川総合病院を継ぐことが君の目標になった。その頃の君は、その目標が純粋に自分の目標だと感じたに違いない。何しろ、君は、そのたたずまいに似合わず(いい意味でだよ)、正義感が強くて義侠心にも富んでいるから、困っている人を黙って見過ごすことができないのだ。ぼくは君が親身になって、友達の肩代わりをしてやっている姿をよく目にしたものだ。
お母さんが生きているうちは、それでよかったんだ。お母さんが父親の古川医師から失った信頼を、君が取り戻すことに意味があったのだから。きっとお母さんは喜んでくれるに違いない。
だが、お母さんが亡くなった今、君が後継者になるべく努力していることを喜んでくれる人は誰だろう? まずぼくは、除外される。何しろ、その喜びを共に分かち合う以前に、自分から脱落したのだから。
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学