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京都七景【第十八章】後編

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 さて、里都子さんは、ストーブ前の長椅子の端に毛布にくるまって座り、黙ってうつむいている。おれは、何をしていいかわからないので、とにかく温かい飲み物でも入れようと、水をくんだ薬缶をストーブの上に載せ、ドリップ式のコーヒー入れとカップ二つを、ストーブを挟んで長椅子と向かい合った応接テーブルに置くと、自分の椅子をそのテーブルの端に寄せて座った。薬缶の湯が沸くまで、しばらくはこの状態が続いた。
 十分くらいして、しゅんしゅん湯の湧く音をきっかけに、おれは立ち上がって薬缶をテーブルに移し、濾過器に湯を注いで二人分のコーヒーを入れて、片方のカップを里都子さんに渡し、もう一方のカップを持って元の椅子に戻った。しばらくは互いのコーヒーを啜る音が断続的に響く。
 ようやく身体の内側からも暖まったのか、里都子さんが、うつむいたまま口を開いた。

「私、ふられちゃった」うつむいた顔からポタポタと涙が滴り落ちて行く。またしばらく沈黙が続いた後で、
「野上さん、悪いけれど、となりに座ってくれる?」
「えっ?」おれは絶句した。これはどうしたことだろう。おれが言葉の意味を解しかねて黙っていると、
「突然そんなことを言われても困るわよね。でも、泣き顔を見られるのが恥ずかしいの。もう泣いてくしゃくしゃになっているし、この後も、話すたびに何度も泣いてしまいそうだから。ね、お願い」
「わ、わかりました。そそ、そういうことなら、もちろんいいですよ」おれは、かなり緊張しながら、長椅子の反対の端(とはいうものの、両側に肘掛があって、座ると間に二十センチくらいしか余地の残らない場所)に腰掛けた。

「ごめんなさいね。でも、今日はどうしていいか本当にわからなくなったの。どうか、助けると思って、これからする話を聞いて、野上さんの思ったところを聞かせてもらえないかな? いつも、ついつい甘えて迷惑をかけているのはわかっている。けれど、野上さんに話すと不思議と心が落ち着くのよ。でもそれだけじゃないわ。野上さんの意見は、他の人と少し違っていて、対立する者それぞれの心の内にある葛藤を汲み取った上での意見でしょう。だから親身だし、心に響く。しかも時には歯に衣着せぬところがあるからとても怖い。でも、いいえ、だからこそ、納得できる。
 今夜は少し私の話につきあってもらえないかな? このまま自分の部屋に戻っても、頭が混乱して、自分をコントロールできそうにないし。もう、この世のことなんか、どうにでもなってしまえという気分なの。自分が何をするか、何をしないでいられるか自信が持てないのよ。ね、お願い、話を聞いてくれる?」
「もちろんですよ。何かひどく苦しそうですけど、大丈夫ですか? 窓を開けて外気を入れましょうか? それとも、コーヒーをもう一杯注ぎますか?」
「いいえ、大丈夫。ありがとう。ただ、今の状況に気持ちが追いつけなくて、いらいらして身の置き所に困っているだけ。たぶん話を聞いてもらえれば、だんだん落ち着けると思う」

 そう応じると、里都子さんは、こんな話をした。簡単にまとめておくことにするが、この前の続きだね。
 あの後、優男は里都子さんに金の相談をした。自分がもう一度やり直すには、遊び仲間との関係を絶たなければならぬ。それには、溜まっている借金を全て返しておく必要がある。こういう時は、実家を頼るのが筋だが、予備校の授業料やテキスト代まで遊びに使い込んで、半ば勘当状態にあるので無理だと言う。里都子さんは仕方なく借金の肩代わりをした。
それから、里都子さんは祖父のところに行って、優男とよく話し合って、もう一度やり直すことにお互い決心がついたから、自分の責任で、もう一度チャンスをもらいたいと頼んだ。
 祖父は、話半分に聞いたが、里都子さんの態度があまりに真剣なので、とりあえず話はわかったことにし、今度は自分が優男の意志を確かめた上で、返事をすると約束した。祖父は、優男の改心を疑っていたので、さっそく呼び出して、その決心を確かめた。

(ここからは、古川医師が里都子さんに語ったことを、おれが再編集してお送りする)

 優男は、初めは、里都子さんの言う通りで、もう一度やり直すべく硬く決意している様子を見せた。しかし祖父がもう一歩踏み込んで、もし、君が、里都子への思いやりから、自分に無理して計画に従おうとしているのなら、結果は見えているから私はやめたほうがいいと思っている。君のこれまでの努力や志には本当に頭が下がる。言葉に表せないくらい感謝している。
 だが、ここ数年の君の行動を見ていると、君には別にやりたいことが出てきているのではないだろうか。それが、何であるかは、私にも想像がつかないが、君の医学に対する態度を見ているとそれがよくわかるのだ。医学が重荷になり出して、できればそこから解放されたいと、少なからず願ってはいないか? 別天地で自分の力を試したい気持ちが増してきてはいないか? 
 確かに、里都子のいう通りに、再度挑戦してけじめをつけることは大切だろう。自分の可能性を試すことだからな。でも、それは自分がどちらか迷っているときのやり方だ。もし、君の意志が、その新しい方向に、すでにかなりな程度舵を切っているのなら、再度挑戦することは、君の時間を無駄にさせてしまうことになる。私はそれを恐れるのだ。
 もし、そうだとしたら君はもう十分努力したのだ。これ以上律子に合わせて努力するには及ばない。どうだい、君はそうは思わないかい? 
 そう優しく宥められると、優男の態度は急に軟化し始めたそうだ。先日、里都子さんにもう一度やり直しましょうと言われたときは、力が湧いて、達成できそうな自信が漲ってきたのだけれど、いざ勉強に取りかかろうとすると、どうしても身体がいうことを聞かない。勉強の中身も前ほど頭に入らなくなっている。始終気分がいらいらして、いつのまにか机を立って、その辺をぐるぐる歩いているという始末。
 そのうち、頭の中に、アメリカ人がアメリカンドリームを抱くように、ビジネス界に勇躍して商取引の世界で成功して名士になりたい、という気持ちが抑え難く浮かんで来るようになり出した。人のために何かをするより、まずは自分がどれくらい大きな夢を実現できるか、あるいは一攫千金を狙う世界的な大金持ちになって、世の中を左右できる人物になれるか、そういうことを試してみたくなった。
 もちろん、そういう人生に浮き沈みはつきものだ。でもその時々に、するであろうスリルが、ぼくには応えられない。こんな人間はきっと医師には向いていないはずだ。となれば、自分が医師になって人の役に立つという考えより、自分は資本家になって、優秀な医師を呼び集めて優良な病院を創設することのほうが社会にもっと貢献できるのではないか。おまけに、資本は医療の分野だけでなく、社会のいろいろな分野にも役立てることができる。これは一石二鳥どころか、五鳥にも十鳥にもなるかもしれない。最近は、そう思うようになった。だから、ぼくを信じてくれた里都子さんには、大変申しわけないが、先日の話は断ろうかと思い始めていた。