京都七景【第十八章】後編
・最初の五ヶ月は、これまでの生活習慣と学習の遅れを取り戻す訓練をする。すでに試験範囲の学習内容は、最初の二年間で一通り終えているはずだから、思い出すことと覚えることに集中して、基礎力を取り戻す。
・今年は、とにかく医学部と名のつく最も入りやすい大学を六校以上受験するのを目標とする。もちろん、加えて、本命、中堅、滑り止めの三校を、受かる、受からないにかかわらず受験しておく。これは来年への予備演習になる。
・次。私の予想によると、最初の六校グループの一、二校には、あなたならおそらく合格ができるはず。もちろん中には、高額の寄附金を求めてくる大学もあるでしょう。でも、ここで怯んではだめ。とにかく受かったら必要最小額だけ払って、そこに手続きをしておく。これが、抑えの鉄則よ。翌年、別の大学に受かったら退学すればいいんだから。でも、そこで安心して気を抜いたら、あなたのプライドが元も子もなくなることは覚えておいてね。
さて、それからが本気の一年。ここは脇目も振らず頑張ってもらうしかない。でもね、理性を持って、良うく判断してほしいの。医師免許は国家資格でしょ、一度取得してしまえば、一生有効になる。つまり、順調にいけば、それ以後、職種を変える必要もなく、転職することもない一生の仕事が手に入る。それが、ここ一年五ヶ月の努力の意味よ。しかも、四年前から、いいえ、それ以上前から身につけて来た学力を何一つ無駄にすることもない。
これからも相変わらず状況に流され、不平を鳴らしながら、鬱々と遊びにはけ口を見出す生活を送るのと、人生に一度の一年五ヶ月の努力で(まあ、それなりにその後も努力は続くでしょうけれど)、一生の生活が保証されるのと(もちろん現実はそんな甘くはないかもしれない。でも、それはひとまず置いておいて)、どちらが得かしら?
ん、もう。これじゃ、お祖父ちゃんの功利主義と同じ考え方じゃないの。こんなことを言うつもりはなかったのに。ああ、自己嫌悪に陥りそう。でも、ここは良しとしておくわ。だって、緊急事態だもの。
私の考えはざっとこんなものよ。これはあくまで可能性の一つだから、あなたはこれに拘らなくていいのよ。ただ、あなたが、今の時点で、もう詰んでいると思うのは、いかにも判断が早すぎる、いいえ、判断を放棄している、と思うから、一つの実現可能な打開策を考えてみただけ。ねえ、どう思う?」
「ぼくには、もったいない提案だと思う。でも、そこまでりっちゃんがぼくを信頼してくれているなら、恥を忍んでもう一度頑張りたい。それが、今のぼくの正直な気持ちだ。りっちゃんの励ましの言葉を聞いて、なんだか自分でもやり抜くことができそうな気になった。本当にありがとう」
「では、やってみてくれるのね?」
「うん。この一回のチャンスに賭けてみたくなった」
「これはギャンブルじゃないのよ、わかってるわね?」
「当たり前じゃないか。ぼくは、努力の結果がちゃんと現れることをしたくなっただけだよ。これまでがあんまりでたらめな生活だったからね。今日を境に、生活と心をはっきり改めるよ。どこまで、期待通りにやれるかは、悪いけれど保証はできない。何しろ人間が人間だからね。でも本気で頑張ることは約束する。まあ、見守っていてほしい。
それで、こんなときにお恥ずかしい次第なんだけれど、一つ相談に乗ってほしいことがあるんだ。ここでは、言いにくいので、りっちゃんの家の玄関先で話してもいいかな?」
「ええ、いいわよ。今日はお祖父ちゃんも帰りが少し遅くなるから、顔を合わせることもないしね。それに、さっきから野上さんにもずいぶん迷惑をかけているし、ちょうどいいわ。野上さん、いろいろ変なことを聞かせちゃって、ごめんなさい。できるだけ、このことは、忘れちゃってね。それじゃ、また」
そう言うと、里都子さんは先に立って、玄関口の方へ回って行った。その後から、優男が例の調子で、ゆっくりと従った。その優男の後ろ姿が、おれにはさっき会った時より心なしか縮んだように見えた。
それから、一月過ぎた十二月初旬の、ある冷たい雨の降る晩のことだった。午後四時ごろからしとしとと降り始めた雨は、八時ごろになってその雨脚をかなり強めてきた。その雨音に混じって、傘をさした複数の人間の乱れた足音が、フランス窓の向こうに聞こえたような気がした。
不吉な予感がして、外の気配に息を凝らすと、足音はフランス窓の前あたりでしなくなり、その後には、ただ傘を強く打つ、雨のボンボンという音だけが響いて来る。おれは、息を殺し、傘を叩く雨音が早く通り過ぎてくれることを、心の中で何度も祈っていた。
だが、おれの祈りも空しく、外から言い争う声が断続的に聞こえてきた。内容は雨音にかき消されてわからない。しかし、誰と誰の争いなのかは扉を開かなくても容易に察しがついた。おそらく、優男と里都子さんが揉めているのだ。でも、どうしていつも、おれの部屋のフランス窓の前なのか。ま、それは今、問わないことにする。
そうするうちに、衣ずれの音、カツンという金属音、きゃっという悲鳴に、どさっと米俵の倒れるような音が連続して響いた。
《まずい》おれは特定の信号(この場合、女性の悲鳴のこと)に即条件反射する、よく訓練された警察犬のように、扉をあけて外へ飛び出した。
最初に目についたのは、大きな黒い傘をさし、大股で急ぎ足に遠ざかって行く男の後ろ姿である。予想通り、優男だ。で、里都子さんはどこにいるのか? おれは、恐る恐る近くに目を移した。
いた。そばの地面に、コートを着た里都子さんが膝と手をついた格好で、座り込んでいるではないか。傘は、逆さになって脇に落ち、髪やコートは、雨に濡れるがまま、水滴を滴らせている。《いけない》このままでは身体が冷え切ってしまう。
おれは急いで、里都子さんに駆け寄ると、
「大丈夫ですか? とにかく、おれの部屋でしばらく雨を避けましょう」そう言うが早いか、右手の肘を支えて、里都子さんをなんとか歩かせ、おれの部屋の長椅子に腰かけさせた。
おれの部屋は、元診察室だったせいか、運よく冬季用の石油ストーブが常備されている。そのストーブを、幸い、この日も点けていたので、里都子さんのいる長椅子の近くに運んで、暖を取ってもらうようにした。それから髪を拭くバスタオル(もちろん新品)と、身体を温める毛布(来客用)を渡した。
最後に、濡れたレインコートを椅子の背にかけるとき、右の手のひらと両膝に血が出ているのがわかった。おそらく地面に倒れたときにできた傷に違いない。あいにく、おれの部屋に救急箱などというものはない。どうしようかと困り果てていると、それを察した里都子さんは、たしか隣の処置室にいくつか置いてあるから、それを使ってもらえれば大丈夫と言って、マスターキー(下宿でのトラブル対策用に常に所持しているとのこと)を渡してくれたので、持ってきて一通りの応急処置を済ませた。
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学