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京都七景【第十八章】後編

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 そんなとき、引き続いて事件が起きた。表向きは優男の事件だと思われた。ところがそれは事件でさえなかった。優男が起こした事件ならまだ私には耐えられたのだ。だが、これは後で里都子から聞いたことだが、事実は、里都子が自分の選んだ道へと進むために、自らの退路を絶つ覚悟を示して祭神に念願成就を願おうとするものだったということだ。だが、それだって、まだまだ耐えられたのだ。一番困ったのは、その里都子の横に君がいたということだ。
 ここで急いでつけ加えるが、君が里都子と恋愛関係に陥っているとか、そういうことを言いたいわけではない。もちろん君は、そんなことはないと否定するだろうが、たとえ、それが事実であっても、私はそれを禁じようとは思わない。人の恋愛感情は他人がどうこうできるものではない。そのことは私も身にしみて分かっている。娘の恋愛がそうだったからな。
問題は、君の気がついていないその態度と言動にある。というより、君の存在の仕方、というと難しくなるが、つまり君の文学的な生き方にあるというべきなのかもしれない。以前君は、「悲しみに沈んだ人間、それも責められる理由なく困っている人間の側に立って、その人の心の負荷を文学によって少しでも軽減したい」と言っていたね。人間、なかなかそんな気にはなれないものだ。だから私はそれを聞いて尊いことだと感心した。そうして君の文学性、言い換えれば、他者に対する共感性の高さに頭の下がる思いがした。その思いは今も変わらない。変わらないが、我が家の現状に当てはめるとき、それは諸刃の剣になる。では、どうして諸刃の剣なのか? それは、君の共感性が里都子に対しては働くが、私たちほかの家族には働かないということだ。
 今、里都子は、自分の選んだ道へ進む決意をしている。私も、それは痛いほど分かっていて、心の奥底では、まだ快く許すことができないものの、いずれそうせざるを得ないと結論は出しているのだ。ただし、たとえ結論は同じだとしても、私は古川家の行末に責任を持つ者として、今のような性急な実行動(じつこうどう)ではなく、里都子ともっと時間をかけて話し合い、家族の納得を得ながらの緩やかで着実な事態の収拾を望んでいる。
 ところが、里都子は、わが家のこれまでのいきさつからして、当然だが、君により多くの信頼をおいている。君は、悲しみに沈んだ人間を放っておくことはできない性格だ。きっとその文学的共感性を活かして、無意識のうちに事態を自然と里都子の望む方向へと促してしまうにちがいない。君にその力があることは、そばで見ていればよくわかる。
 だがそれは、私に言わせると、里都子の方だけ先に進んで、私たちの理解と承認が追いつかなくなり、更なるトラブルを一族で抱えてしまいかねないということを意味する。
 だから、里都子の気持ちを実現するために、申しわけないが、家族同士、互いに納得できる時間をかけて事態を解決に導きたいのだ。私たちが身勝手なことを言っているのは分かっている。だがどうしてもそこを乗り越えないわけにはいかない。本当に心から申しわけないが、里都子と家族の両者に、事態の不均衡が起きぬよう、君には身をひいてもらいたい。理不尽を承知の上で申し上げている。どうかそこのところをよく汲み取って、ぜひとも了解していただきたい。この通りだ」と。

「で、その言葉に従ったというわけだ」と大山が斬って捨てる。いつもより気が立っているらしい。眠気がピークに達しているのかもしれない。

「おれに何ができるというんだ、そこまで言われて? できることが全部封じられてしまったような気がしたよ。しかも、里都子さんは肺炎で総合病院へ入院してしまった。どこの病院かも教えてくれないし、いつ退院できるかも当然ながらわからない。これではもはや里都子さんの役に立つことはできない。ここにこれ以上いても、ただ古川医師が迷惑に思うばかりだ。だから、おれは立ち退くことにした。ただし、話の中身からして、医師自身が、まだ里都子さんを諦めきれていないことは言葉の端端から伝わってくる。そこで、効果は期待できないにせよ、ひとまず牽制だけはしておこうと、条件を一つ出すことにした」
「どんな条件だい?」と露野が深刻そうな顔をした。

「大したことじゃないよ、ただ、言うことだけは言っておこうと思ってね。
『里都子さんが忍んだ苦しみをよくよく思い返していただき、どうか今度こそ、里都子さんの意思を第一に尊重してください。お願いします。でも、返事は要りません。いずれわかることでしょうから』と言った」
「なんか、捨てゼリフ的だな。心が荒んでたんじゃないか?」
「そうだったと思う。心の中に、この家族に任せていていいのかっていう迷いがあったのは確かだ。だが、そのときのおれに、里都子さんの相談を聞く以外にできることは何もなかった。金はないし職業についてもいない、勇気も、その勇気を支える社会的信用もない。つまり、社会の中で何者にもなっていないのだ。だから、何かに責任を取ることも出来ない。せめて古川医師のもう一つの申し出だけでも断れたらよかったのだが、悲しいことにそれさえ出来なかった」
「それって、つまり?」
「つまり、こんな申し出だった。
『こちらが無理矢理言い出した以上、いやでなければ、次の下宿はどうか私に世話させてほしい。こんな中途半端な時期に、君を放り出すようなことは里都子のためにも決してしたくはないのだ。それから、迷惑をかけるお詫びとして次の下宿の敷金及び二、三月分の部屋代はこちらで持たせてもらいたい。ぜひともこの二つを承諾してほしい。私のたってのお願いだ。野上君、よろしく頼みます』と。
 最初は断ろうと思った。一身の独立はまず経済的独立からだと自分に言い聞かせていたからね。でも、残念ながら、折悪しく手持ちの金が底をついていた。実家に援助を頼もうにも、理由が見つからない。本当のことを話せば、きっと誤解を招く。限りなく赤に近い嘘もつきたくない。それで、情けなくも話に乗ってしまったというわけだ。ああ、情けない。里都子さんに会わせる顔がない。おれは、これでよかったのか?」
「よかったのかって、その後、半年以上が経っているじゃないか。なら、事態はもっと先へ進んでいるんだろう?」と露野が当然至極の質問を発する。

「それが、そうじゃないんだ。おれにとっては、一切があの事件の時で終わっている。その後の進展は何もない。ただ、わずかに得られた情報を総合すると、里都子さんの状況は変化しているようだ。しかも、決して良いとはいえない方向に。それに対して、おれは、悲しいことに、今なお、なすすべがない。つまりこういうことだ。
 おれが下宿先を代わってから、古川家の時間も停止したままだった。里都子さんの行方も相変わらず不明。西洋館に古川医師の姿はなく、管理人さんだけが住んで下宿の世話をしているらしい。
 あるいは真如堂なら、里都子さんに会えるかもしれない。そう思って、今も大学の行き帰りに三重塔の前を通り過ぎているが、成人の日のあのとき以来、一度も会うことがない。