京都七景【第十八章】後編
刑事は、もしや、里都子さんは優男から呼び出されたのではないか、もし呼び出されたなら、今の優男は、ひどく追い詰められているから、そのまま里都子さんをどこかへ連れ去り、返してほしければ金を用意しろと恐喝して来ても不思議ではないことを、古川医師に伝えて、今すれ違ったばかりの、里都子さんを追って玄関の外に出た。古川医師もその後に続いた。医師はすぐに真如堂の参道を登ってゆく里都子さんの姿に気づいた。総門を過ぎるとき、すっと里都子さんの横に寄ってきた男の姿が目をひいた。
男はダークグリーンのトレンチコートを着て肩まで髪が伸びている。それって、優男のトレードマークではなかったか。刑事はそれを直感して、お嬢さんに危害が及ぶかもしれないから念のため尾行することを医師と確認し、あの男が、優男本人か、もしくはその仲間という可能性も十分あるから、お嬢さんの安全を優先するため、こちらから積極的な行動は起こさないでおく。男も、距離を置いて刑事が尾行していることに気がつけば、(おそらく我々と顔見知りのお嬢さんがそのことを示唆するに違いないから)手を出すことを控えるにちがいない。ただ、そのためには、根気よく尾行を続けて、男を諦めさせるほかはない。男が諦めれば、必ずお嬢さんから離れるときが来る。その隙をつけば、お嬢さんを保護できると思う。そのときは、無線で連絡を入れるから、すぐ現場に急行してもらいたい。それまでは、もう一人の刑事とともに車で待機していてほしい。
そう言い残して尾行を続けるうちに、ただ尾行しているだけではいけない。この男が本当に優男なのかどうかを、ある程度見極めておき、予想される行動の一つ一つに対応策を講じて、その逃亡を防ぐことこそ緊要だと気がついた。
この男は本当に優男なのか? さて、どうやって知ればいいのだろう? そうだ、優男は、お嬢さんの幼馴染で許嫁にまでなったということだ。ならば、ひとまず、前を行く二人の様子をじっと観察して、そういう親しさや仲良しの関係がみて取れるかどうかを探るよりほかに方法はないではないか、そう考えた。
ところがこれがどうもうまく行かない。二人が親しいのか、よそよそしいのか判断がつかないのだ。あるときは互いに距離を空けて妙にぎこちないし、あるときは手をつないだり肩を寄せたりして妙に馴れ馴れしいし、だが、そうしているうちに、思い当たった。これこそ、気まずく別れて再び会った元許嫁同士の愛憎相半ばする関係なのではないかと。
そう結論づけた時に、急に二人がバスの前を駆け出した。たぶん、そのバスに乗るつもりなのだろう。ついに法勝寺町のバス停に至って、申し分のない好機が巡ってきた。きっと、お嬢さんを先にバスに乗せるにちがいない。続いて、優男が乗り込むその瞬間をねらって、お嬢さんからひき離し、バスに乗らせないようにする。お嬢さんをバスへ逃がして優男だけを確保すること。
実際この計画は図に当たった。結果は上守備と行くはずだった。ところが、実際はごらんの通りだ。面目次第もない。とにかく、君を疑ってすまなかった。そう言って、刑事は不服そうだが、頭を下げた。
……
では、ここからがいよいよ最後の後日談となる。
事件から一週間ほどして、おれは古川医師から西洋館の邸(やしき)に来てくれるようにと呼び出しを受けた。話すことがあるという。
話は、まとめると、こんなことだった。
まず最初は、里都子さんの病状についてだった。里都子さんは、約一週間、祖父古川医師の治療の下、自宅療養をしていたのだが、症状の回復が思わしくなく、軽い肺炎も起こしたので、医師のよく知る、ある総合病院に昨日入院させたということだった。
それから、話題は先日の一件に移った。この間の件については、自分と刑事の軽率な判断が君に迷惑をかけてしまったことに心からお詫びする。また、あの日、里都子が伏見稲荷に行くのをエスコートしてくれたことに大変感謝しているとも言った。
そうして少し沈黙があってから、古川医師はその沈黙を振り払うかのように、首を横に振って肩をそびやかし、大きく深呼吸してから、話しを続けた。
「実は、今日君に来てもらったのは、これだけのことを伝えるためではない。本題はこれからなんだ。君にとってはおそらく、理不尽と思えるほどの無礼な話をすることになると思うが、どうか我慢して聞いてくれたまえ。できる限り率直に、そして単刀直入に話そうと思う。聞いてもらえるかい?」
おれは、古川医師の顔をじっと見つめ、息を止めたまま小さくうなずいた。
「君にお願いがある。ただし、もし君がいやだと言っても、どうしても聞き入れてもらわなければならない、そういうお願いだ。どうかこれから言う二つのことを承諾してほしい。
一つ、今後、どんなことがあっても里都子の前に姿を見せないこと、また、たとえ里都子が君にどんな接触を図ろうとも、今後一切関わりにならないことを約束してもらいたい。
二つ、以上の件につけ加えて、君に古川家の下宿から早々に立ち退いてもらいたいのだ。
こんな理不尽な話を、いつも快く里都子の相談に応じてくれた君に言うのは、本当に心苦しいことだが、理由は、おそらく君も気がついてくれていると思う。
つまり、最近の里都子の考えや行動に私は不安を感じてしまうのだ。里都子が、優男とのトラブルから健康を回復して、精神的な成長と自立を遂げようとしていることはよくわかる。
だが、その一方で、先日の法事のときのように、古川家代々の方針から自分を自由にしてほしい、自分には進みたい道がある、と面と向かって言われたことに、私は、かなりショックを受けた。こうした展開が予想されるのは十分承知していたはずなのに、いざ里都子から面と向かって言われてみると、これほど自分が取り乱すとは考えてもいなかった。今も、里都子にどう答えてやればいいのか途方に暮れている始末だ。
事実、里都子が、いやな顔ひとつせず、母親、いや娘に代わって、精魂込めて古川家のために尽くして来てくれたことは心底ありがたく思っている。だから、私も里都子にこれ以上の無理を強いてはいけないと、分かってはいるのだ。でき得るならば、もうこの辺で古川家の呪いから解放して自分の好きな道へ自由に進ませてやりたい。
だが、私にとって、予想と現実はあまりにもかけ離れていた。私はまだ里都子に医師の家業を継いでほしいと非道にも思っていたのだ。それを知って、私は里都子に合わせる顔がないと思った。家業の重圧をひとり背負わされ、苦しみ悩んでいる姿を見ると、このもつれた家族の糸から里都子をなんとか解放してやりたい。そういう気持ちに私の心が大きく傾いて来ているのもまた事実だ。だが、それを最終結論とするには、里都子を諦めるための長くまとまった時間と揺らがぬ覚悟が、私には決定的に不足している。
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学