京都七景【第十八章】後編
大きな呼び声とともに、左肩に誰かの頑丈な手がかかった。おれは、その強い力に引き戻され、そのまま後ろに尻餅をつきそうになった。幸い、その誰かの両手が、今度は、おれの両脇を抱えて、おれを立ちあがらせた。おれはびっくりして後ろを振り向いた。なんと、さっきの刑事がおれを羽交い締めにしているではないか。またまたびっくりして、バスの里都子さんを見た。里都子さんも、唖然として目を丸くしている。そこへバスから、
「お急ぎのところ誠に恐れ入りますが、次のバスをお待ちください。この後すぐに参ります」というアナウンス。と同時に後部ドアは閉まって、つれなくもバスは行ってしまった。あとには、羽交い締めにされたこのおれと、おれを羽交い締めにしているあの刑事だけが残った。
「何をするんですか!」
「何をするかって、お嬢さんをお守りしたんだ」
「いったい何からお守りしたんです?」
「決まってるだろう、優男からだよ。きみは優男だろう?」
「どうしておれが優男なんです?」
「そうでなきゃ、優男の一味かね?」
「そんなわけないでしょう! おれは、古川家の、正真正銘の下宿人ですよ!」
刑事はおもむろに羽交い締めを解いてから言った。
「それを証明できる人は?」
「今バスに乗って行った里都子さん、いや、お嬢さんです」
「賢い答え方だな。ほかにないのか、証明できるものは? 免許証とか学生証とか?」
「免許はまだ取ってません。学生証はありますけど、今日は祝日だし、服も違うので、携行はしていません」
「なるほど。で、そのコートは借り物かね、それとも自前かね?」
「もちろん自前ですよ。でも、だから何だっていうんです、盗品だとでもいうんですか?
これは去年の秋、貯めたバイト代でやっと買えたトレンチコートなんだ。言いがかりをつけられる筋合いはないはずです」
「盗品かどうかは関係ない。自前か借り物かが分かればいいんだ」
「自前ですよ、今も言った通り」
「ふーん、自前ね。それで、自分の身分を証明できるものはないのね?」
「ええ、口惜しくて無念ですけど」
「じゃあ、古川医師が着くまで、私と、この場にいてもらうよ」
「ええっ? おれは里都子さん、いえ、お嬢さんとの約束があって、とにかく遅れてでもついて行かなくちゃならないんです」
「そんなに手間は取らせない。さっき通報したから、もうすぐここに着くはずだ。それまでは待ってもらうよ。それに、下宿人なら、古川さんが証明してくれるだろうから、きみにとっても悪い話じゃない」
「悪い話じゃないって、おれは、金輪際悪いことなんかしてませんからね!」
「まあ、待とう。古川さんが到着すればはっきりする」
「古川さんがお見えになれば、おれもすっきりします。でもなぜお見えになるんですか?」
「その質問には、まだ答えられない。きみの素性が一件に無関係だと分かれば、話せるだろう」
その言葉が終わるか終わらないうちに、見たことのある黒いセダン車が停留所の前に滑り込んで来て、キイイっと音を立てて止まった。すぐに後部ドアが開いて、背の高い老人が飛び出して来た。古川医師だった。刑事がすぐに声をかけた。
「お嬢さんはご無事です。不審者も確保しました」
「おお、そうか、そうか。うまくいきましたか。ああ、よかった、よかった。一時はどうなるかと思ったが、本当にありがとうございました。感謝の言葉もありません。この通りです(古川医師が深々と頭を下げる)。で、里都子はどこにおりますか?」
「それが、事情あって目下五番のバスにお乗りです」
「五番のバス? 刑事さんが乗せたのかね?」
「いいえ、乗せたのは、不審者の男です」
「で、その不審者の男はどこへ行きました? 別のところへ連れて行かれたのかな?」
「いえ、この男ですが」そう言うと刑事は横にいたおれを指さした。
「おや、どうもおかしいと思っていたが、野上くん、君が不審者だったのか? 驚いたな」
「いいえ、ぼくは不審者なんかじゃありません。お嬢さんに依頼されて、ただつき添って来ただけです。誤解です。何かの間違いです」
「そうよ、誤解よ、何かの間違いだわ!」突然、苦しそうな、咳混じりの声が響いた。
皆が一斉にそちらを見ると、里都子さんが、停留所近くの土塀に片手をついて、苦しそうな表情で一生懸命に声を出している。
「里都子! どうした! おまえ、バスに乗っていたんじゃなかったのか?」間髪容れず古川医師が尋ねた。
「こんな状況でバスになんか乗ってられるわけがないでしょう? 二つ先の美術館前で降りて、すぐ引き返して来たのよ。どうしてこんなことになったのか知らないけど、とにかく野上さんは優男の事件とは何の関係もない、それだけははっきりしてるわ。今日だって、伏見稲荷のお参りに一緒について来てもらう約束だった、ただそれだけよ。それが悪いことだっていうの?」そう言うと、里都子さんはもう片方の手で額を押さえて崩れるようにその場にしゃがみ込んでしまった。顔から血の気が引いて蒼白に見える。
驚いた古川医師は、すぐに駆け寄り里都子さんの身体を支えながら、額に手を当て、目の下瞼を確かめた。
「いかん、熱が出てきた上に、貧血まで起こしている。咽頭部にも少し炎症があるようだ。刑事さん、申しわけありませんが、私たちを家まで運んでくださらんか? 帰ってすぐに詳しい診察と治療をする必要がありますので。今回の一件は、孫娘の容体がよくなってからまた改めてということにしたいのですがいかがでしょう?」
「わかりました。けっこうです。では、また日を改めてということにします。ご連絡は古川先生からということでよろしいですか」
話は即決した。古川医師は乗ってきた刑事の車で里都子さんを連れて自宅へと向かった。おれは、尾行して来た刑事といっしょに下宿まで歩いて戻ることになった。里都子さんの証言のおかげで、刑事は帰る道々、この間(かん)の最小限の事情を説明してくれた。
それによると、今日刑事が来たのは、やはり優男に関わる件だった。詳しいことはわからないが、優男は仲間から預かった金を投資ですってしまって金に困っているらしい。仲間はそれを返せとしきりに迫って来るが、もちろん返せる当てはない。優男も困り果てて、非合法(つまり詐欺や恐喝などなど)も含めて、あらゆる手段を使って、金をかき集めようと必死になって駆け回っている。もちろん、親類縁者にもその被害は及んでいる。だから、これ以上、優男が法を犯さないうちに、そして更なる被害者が出ないうちに、優男を検挙して被害を最小限に抑えようと内密に捜査していたところ、一味の一人から、古川医師が優男に資金を提供する約束をしているとの噂を聞き、すぐに真偽を確かめるべく捜査にきたということだった。
古川医師にそのことを尋ねると医師はこう語った。確かに約束はしているが、まだここへはしばらく姿を見せていない。そういえば里都子が今日誰かと待ち合わせて出かけたが誰と会うかは言っていなかったのがいつもと違って妙に気になったと。
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学