京都七景【第十八章】後編
一人が玄関先のブザーを押し、もう一人は車の脇に立って往来の左右を確かめる風である。玄関の男は、そのうち中から開いたドアの内側に姿を消し、ドアは一旦閉まった。残った男は、曇って底冷えのする戸外に直立不動の姿勢で立ち、往来を伺っている。戦時なら、まず歩哨といったところだ。何かあったのだろうか。おれは気が気でなくなった。
しばらくして、あたりに静寂が戻った頃、再びドアが開いて、肩にショールを掛けた振袖姿の里都子さんが姿を現した。少し慌てている様子で、急いで前の通りを渡り、真如堂の参道を、サクサクと速足でこちらに歩いてくる。おれは片手をあげて合図をした。里都子さんは一度後ろを振り返ってから胸のあたりで軽く手を振った。
「何かありましたか」
「ええ、ちょっと。詳しいことは母の墓に着いたときに話すわね。とにかく、急ぎましょう」里都子さんは、そう言うと先に立って、また速足で歩き出した。息急き切って来たのだろう、ときどき、歩きにコホコホと咳が混じる。
おれは気になって、洋館の玄関先を振り返った。驚いたことに、さっきの静寂を乱すように三人の男たちが集まって話している姿が見える。二人はさっきの男たちである。もう一人は、そう、古川医師である。その古川医師は片手をこちらの方に向け、二人の男に何か話しかけている。と、すぐにその塊が崩れて、中の一人がゆっくり通りを渡り真如堂の参道をこちらに向けて来るようである。今度はおれが慌てた。先へ行く里都子さんに追いついて並んで歩きながら声をかけた。
「誰か、おれたちの後をつけて来るみたいですよ」
「ええ、わかってるわ。とにかくお墓まで急ぎましょう」
おれたちは無言のままお墓まで急いだ。お墓に着いて、もう一度振り返ると、男は三重塔の前で足を止め、やはり直立不動にこちらを眺めている。おれはあたりを見回した。墓参りは、どうやらおれたちだけである。ということは、つけて来る目的はおれたちの動向にあるということだ。おれは、里都子さんの祈りが終わるのを待って話しかけた。
「誰かわからないけど絶対につけてきてますよ」
「あの人、刑事なのよ。前に一度優男の件で家に聞き合わせに来たことがあるの。もう一人もその時の刑事さん」
「優男の件で、また何か事件でもあったんですか?」
「どうもそうらしいわね。玄関口に出ると、おじいちゃんとひそひそ話をしてて、何かの事件の重要参考人だとかなんとか、そんな言葉が聞こえたから。でも、話しかけられて時間を取られるのは困るでしょう、聞こえないふりしてそそくさと出て来ちゃった」
「そうでしたか。なら、大丈夫ですね。里都子さんとも顔見知りだし」
「ええ、それはそうなんだけれど、なんだかいつもと違う感じもするわね。でもわざわざ聞きに行くのも藪蛇のようでもあるし。何か起きない限り、無視することにしましょう」
「それがよさそうですね。では、散策に切り替えましょうか。気分はどうです? 怒りの思いは、まだおさまりそうにもありませんか」
「それが不思議なの。玄関までは確かにそうだったんだけれど、刑事さんの姿を見たら、怒りが急速に萎えてしまって、その代わりに、咳が、突然、ぶり返してきたの。おさまるまでに時々咳き込むかもしれないけど気にしないでね」
「風邪かなんかですか?」
「うん、元旦早々風邪をひいて一週間ほど寝込んじゃった。でも、今はもう大丈夫。熱は平熱に戻って来てるし、咳以外の症状は、もうすっかり無くなってるから」
「やはり年末の無理がたたったんですね。今日は無理せず、できるだけ早く帰らなくちゃだめですよ」
「ええ、わかったわ。そうします、ありがとう」
そんなことを話しながら、おれたちは、金戒光明寺の墓地から岡崎神社の脇へ抜け、丸太町通の横断歩道の前で止まった。あいにくの赤信号である。待っている合間に、おれは来た道を振り返った。
相変わらず刑事がいる。しかも、おれたちの間には、どういうわけか、一定の間隔が保たれているようだ。因みに、青に代わった信号が点滅するのをわざと待って、急いで通りを渡り、左に折れて丸太町通を東にしばらく歩いてから、また振り返ってみる。
やはり刑事がついて来ている、ある程度の距離を空けて。
もう間違いようはない。刑事はなんらかの事情があって、おれたちを尾行しているのだ。いったい何が知りたいというのだろう? いろいろ要件を想像してみるが、皆目見当がつかない。思い余って里都子さんに声をかけた。
「あの刑事、ずっとついて来るけど、目的は何だと思います?」
「私にもよくわからないのよ。さっきも言ったけど、聞きに行けば教えてくれるってものじゃないでしょうし、返ってこちらから面倒ごとに巻き込まれに行くようなものだから。ここは黙殺して、私たちは私たちの計画を淡々と実行するのが賢明よ」
「そ、そうですね」
「じゃ、さっき天王町の交差点で、白川通りに曲がったから、ここからが5番のバスのルートよね。幸い、バスはまだ見えないから、練習だけでもしておきましょう?」
「練習って、なんの練習ですか?」
「まさか、ぶっつけ本番でもちゃんとできる、エリートプレイボーイじゃないんでしょ?」
「ま、まさか」
「なら、練習あるのみ。バスが来るまでしっかりとね。よろしくお願いします」ということで、おれたちは、即席カップルからまあまあのカップル目指して、歩きながらの練習をくり返した。内容は前に話した通りだった。果たして、刑事はこのことに気づいていたかどうか。思えば冷や汗ものの体験だった。もちろん、至福の体験ではあったが。
そうこうするうちに、おれたちは、いつのまにか永観堂前の停留所を過ぎ、岡崎橋の手前まで来ていた。橋を渡り二条通りに出る頃は、雪がちらちら舞って肌寒くなった。里都子さんの咳の数もふえている。そろそろバスは来ないかと振り返ると、通りの角にバスの頭が見えて、いよいよこちらに曲がってくる格好だ。おれたちは前を見た。法勝寺町のバス停までは少し距離がある。おれが先にバス停に走って、里都子さんが来るまでバスを引き止める必要がある。そう思ったとき、
「走りましょう」里都子さんが、そう言って急に駆け出した。おれも後から追いかけた。追い越しがてら里都子さんに、
「時間を稼ぎます。後からゆっくり」そう言って走った。おれがバス停に着いたと同時にうまい具合にバスが止まった。その後から、雪が勢いをつけて追い抜いて行く。雪は頬に冷たかった。でも、おれはほっとした。
後部ドアが開き、そこに里都子さんがかけつけて来た。しかし開いた入口を見て、おれたちは驚いた。超満員である。二人乗り込めるかどうかは予断を許さない。とにかく里都子さんをステップに乗せて背中を押した。それに応じて、周りの人も少しずつ後ずさって隙間を作り、おかげで里都子さんだけは何とか乗り込むことができた。
さあ、次はおれの番だ。そう思ってステップに片足をかけたそのとき、
「おい、きみ、待ちなさい」
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学