京都七景【第十八章】後編
「この九月から、新しく入居した学生さん。うるさくしてごめんなさいね、野上さん。すぐ場所を代えますから」
「ふふん。なるほどね。そういうことか」
「そういうことって、どういうこと?」
「ぼくの口から言わせようってわけか。いいさ、ここまできたら言ってやろうじゃないか。とにかく、ぼくにはもう恐れるものは何もないんだから」
「おかしなことを言うわね。私の言いたいことは、さっき全部伝えたはずよ? これ以上私があなたに何を言わせたいというの?」
「ふーん、隠さなくたっていいんだぜ。ぼくは勘が鋭いんだからな」
「何のことか全然わからないわ。どうしちゃったの? しっかりしてよ」
「そうか。どうしても言わないつもりなら、こちらから言おうじゃないか。ぼくの後任者を決めたってことだよね?」
「後任者? 何の後任者よ?」
「とぼけるなよ。後任の医学部生に決まっているじゃないか。ここにいるこの人が、次の花婿候補者なんだろう? そりゃあ、ぼくは約束を破った上に、この通り金まで借りにきてる始末なんだから、文句なんて言える筋合いじゃないのはわかっている。だが、それならそうと、はっきり言ってくれればいいじゃないか。「あなたにはもう用がないんだ」って。
それを、片や、さもぼくが医学部に合格するのを願っているような口振りをしながら、その実、次に乗り換える候補者を、こんなふうにすでに用意している。ぼくは、何を信じたらいいかわからなくなった」
「ええ、ええ、そうでしょうよ。あなたは何を信じたらいいかわからないでしょうし、これからもきっとわからないと思うわ。
ねえ、どうしてそんな卑屈な考え方しかできないの? あなたの考えは、自分の思い込みをつなぎ合わせた妄想じゃない? どうして目の前にある現実を見ようとしないの?
わかったわ。そこまで言うなら、手っ取り早く、妄想だという証拠を一つ、お目にかけてあげる。あなたの後ろにいる野上さんに、何学部か聞いてみたらいいわ。野上さん、巻き込んでごめんね、学部を答えてくれる?」
「話の流れが見えませんけど、お答えします。文学部ですよ、医学部じゃありません。文学部のフランス文学科。もし、疑われるようなら学生証をお見せしますけど? 部屋にありますから」
「い、いや、それには及ばない」
「じゃ、わかってもらえるのね?」
「あ、ああ、まあ、何とか。それなら今度は、ぼくからいくつか質問させてもらいたいんだが、かまわないだろうか?」
「ええ、もちろんよ。それで誤解が解けるならどんな質問にも答えるわ」
「そんなに何でも聞かないさ。二、三聞ければ、それでいいんだ。それじゃ、目下、医学部生の花婿候補は一人もいないんだね?」
「当たり前じゃないの。お互いの家族同士で、話がまだきちんと済んでもいないのに」
「でも、期限も学部も守れなかったぼくを、どうしてりっちゃんはそれほどまで医師にしたいと思うんだい? お祖父さんは、もう諦めているはずだろ?」
「ええ、それはその通りよ。だって祖父はああいう合理主義者だもの、今さら人に温情をかけるなどという気があるはずはない。契約は契約。そんなふうに生きて来たことが、今の現実を生んでいるなんて夢にも思っていないでしょうから。
でも、私はちがう。そんな冷酷な生き方はしたくない。もっと人間的な温かみのある生き方がしたい。人間は機械じゃないんだから。
一点の疑いもなく他人の目標を自分の目標と信じ、言われた通りに脇目も振らず、ただひたすら努力してその目標を達成する。その結果が、私の祖父を満足させる。それでめでたしめでたしだなんて、そんな人生が本当にいい人生だと言える? 他人の人生を自分の人生にすることはできないんじゃないかって、私このごろつくづく思うのよ。人間なんだもの、もっと紆余曲折や失敗の連続があったっていいんじゃない?」
「そう考えているなら、ぼくが医学部受験をやめて、経営学部に入ったことをもっと認めてくれてもいいんじゃないか?」
「それはちがうわ」
「ちがうって、どこがちがうんだ?」
「あなたは仕方なく他人の人生を選んだんじゃない。あなたの責任であなたの人生を選んだのよ。選択肢は、他にもあったはずだわ。でも、この選択肢を選んだ。だってあなたの選択肢は、あなたの希望そのものだったから。
ところが、それを選んだときから、あなたは、もう希望に手が届いてしまったような錯覚に陥り、努力をしなくなったわ。あなたの紆余曲折や失敗は、そりゃ、家族との関係悪化がそうさせた部分も確かにあったでしょうけれど、誰一人、あなたを本当に妨害するようなことはしていない。だから、かなりの部分は努力を怠ったところにあると私は感じてしまうの。
医学部の受験を取りやめたことも、代わりに経営学部に入ったことも、本心からじゃないわね。もし本心からだったら、そう思った時に、自分の家族や私の家族の誰かに相談して、自分の人生航路を変更していたはずよ。そういうこともせずに、今もあなたはただ状況に流されている。だからと言って、それを、自ら望んだことだから自分で責任を取りなさいと、あなたを冷酷に突き放すことは私にはできない。そんなのは人間的じゃないと思う。
断っておくけど、決してあなたを責めているわけじゃないの。ただ、もう一度、初心に返って、いいえ、初心じゃなくてもいいから正気の自分に戻って、一から考え直してほしいと思っている。
どうしてあなたが正気じゃないと私に言えると思う? その理由があなたにわかるかしら? 理由は、あなたのその表情よ。あなたが、評判のよくない浪人仲間と一見楽しそうにギャンブルや遊びにふけっていても、その表情が、それを裏切っているわ。なんてつまらなそうな顔をしてるんだろうって見えるもの。
以前の、無邪気で溌剌としたあなたはどこへ行ってしまったの? 心からの楽しみが得られないなら、そんなことをして何になるの? 私は、なぜあなたがそんな方向に行ってしまったのか、その原因や理由をもっと素直に振り返って、本当のあなたを取り戻してほしいと、心から願っている。そのためなら、私、どんなことでも応援させてもらうから」
「どうして、そこまでぼくのことをかまってくれるんだい? 何度も言うけど、ぼくはもう詰んでいるんだぜ」
「私は、今の状況を詰んだとは思ってないわ。もし本当に詰んだのなら、あなたは両方の家族の前で、どんなに辛くとも、それを宣言しなければならないはずよ。それがまだできていない以上、今のあなたは自分で決意するのを持て余して、すねて人のせいにしてしまいたいと願っているようにしか私には見えない。
もし、それが私の曲解だと言うのなら、みんなの前で、自分の本当の気持ちをきちんと述べてほしい。ねえ、私も協力するから、早く決着をつけてしまわない? 決着がつけば、流されるままの、今の生活から抜け出して、新しい方向に進むこともできるんじゃないかしら?
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学