京都七景【第十八章】後編
【第十八章 真如堂の女 後編】
〈4〉
「それじゃ、流れを戻して、おれが里都子さんを残して真如堂を後にしたところから話しを続けることにするよ。ここから最後の別れのところまで、時系列でノンストップに語るつもりだ。じゃ、いいかい」
わたしは、みんなが、ゴクリと一息にビールを飲むのを待って、おもむろに話し出した。
「おれが、真如堂の総門を出て石畳を歩いていくと、夕暮れの薄闇の向こうから、コツコツとステッキの先を響かせながら、長髪のほっそりとした男がこちらにゆっくり歩いてくるのが見えた。特に変な感じがしたわけではない。しかし若いのに足取りの妙にゆっくりしているところが気になった。
もちろん観光客なら、あたりを見回して歩くから、足取りがゆっくりでも、少しもおかしくはないだろうが、およそ観光客に見えそうもないその男は、あたりを見まわすことなく、自分の数歩先をみるようにして俯いたまま、ただひたすらまっすぐに進んでくる。おれは石畳の右側を歩いてゆく。男は、同じ側を歩いてくる。このまま行けば、ぶつかってしまう。だが、男は決して足先を変えようとしない。おれは、もともと右側を歩いて自分が正しいと思っているから方向を変えるつもりはなかった。しかし、ためらいなく近づいてくる男に、おれは少し恐怖を感じて、ぶつかる一瞬前に横に一歩飛び退いた。
男は、少しも動じる気配がなく、まるで無関心にこれまでの調子で通り過ぎて行く。おれにすまないなどという気はないらしい。だいたい、おれが避(よ)けたことさえ気がついていないかもしれない。
おれは、その男の常識のない態度に何だか憤りを感じ、振り返って、総門の向こうに消えていく後ろ姿をじっとにらんでいた。何という頑なさか。
部屋に戻っても、おれは気がくさくさして落ち着かなかった。仕方なくコーヒーを入れて、読み差しのスタンダールの『パルムの僧院』を手に取って読み始めるとやっと気分が爽やかになってきた。
そのときである。庭先の砂利を踏みしだく、忙(せわ)しい靴音が近づいてくるのが、耳に入った。やがてフランス窓の向こうで音が止むと、今度は怒りを抑えた、男女の言い争うような声が響いた。
声を押し殺して話しているので、話の文脈まではわからないが、お互いの会話のやりとりは比較的よく聞こえてくる。何で、おれの部屋の前でこんなことが起きるのか? おれは、理解できぬまま、恐れ戦いて耳を凝らした。場合によっては警察に通報した方がいいのかもしれない。そんなことまで考えた。
「どうしてわかってくれないの?」女の声だ。
「わかってないのは、そちらのほうさ。ぼくがどんなに苦しんだか、りっちゃんは、本当にわかっているのかい?」今度は男の声だ。女の声は里都子さんにまず間違いないだろう。
「だから、何を苦しんだの? 言ってくれなきゃわからないわ」
「君は知らないだろうけど、ぼくがこの件を内諾してから、家族の様子が次第におかしくなって来た。
兄は長男で父の医院を継ぐことになっている。だから口には出さないけど、昔からりっちゃんのことは大好きで、状況が許せば自分が許嫁の第一候補に名乗り出たいとさえ思っていた。それは、ぼくが誓約した後でも変わっていない。兄はぼくのことが羨ましくて、羨ましくて、憎悪を感じるほどなのだ。だからこそ、事あるごとに、ぼくに辛く当たって来る。
父は父で、昔、きみの母親に気があった。ところが、きみの母親は、まるで大風に吹き倒されるように恋人のもとへと去ってしまった。まあ、これも口には出さないが、父は今でもそのことを恨んでいるようだ。ところが、ぼくを介して古川家の縁者となるのがよほどうれしいらしい。だから自分の妻がそれをどう思うかなど少しも想像できてはいない。全く愚劣な話しさ。
母は母で、そんな夫の嬉々たる姿を見て、愉快になれるはずがない。以来わが家は、お互い誰も口を聞かず神経だけをピリピリさせている。その中にあって、精神的に追い込まれたぼくに何ができる? 全くの針の筵(むしろ)で、勉強など、とても手につかなくなった」
「それなら、どうしてすぐに誓約を破棄しなかったの?」
「いいかい、ぼくだって、きみが予想する以上にきみのことが好きなんだぜ。だから、断るなんて選択肢はなかった。しかも、成績は上々だったから、このまま行けば楽勝だと思った。これが躓きの始まりさ。なんだか、もう人生の希望が叶ったような錯覚に陥ってしまったんだ。だから、うれしさに心が浮き立って、いよいよ勉強に身が入らなくなった」
「でも、まだ二浪のときなら、あなたが入れる医学部はいくつもあったでしょう? どうしてレベルを変えたりしなかったの?」
「りっちゃん。ぼくにも、相応のプライドはある。だって、二つ家族は、ぼく以外みんなエリートなんだから。落ちこぼれたぼくが、さしたる努力もせず、お情けで、実力以上の何もかもを譲り受けたら、それこそ罰が当たりそうだし、お互いの家族にも顔向けができない。「おまえは、偶然落ちていた身に余る幸運をただ拾っただけだ」なんて一生言われるのはごめんだからね」
「そこまでプライドがあるなら、どうしていつもお金を借りにくるの? かなりな高額だけど、いったい何に使ってるの? 貸すのがいやだから言っているんじゃないのよ。あなたがこれからも続けて頑張るつもりなら、いくら出したってかまわないと思っている…でも、その前に、することがあるんじゃない?」
「いったい、何をすればいいって言うんだい? ぼくはもう詰んでるんだぜ。二回目に落ちた時がぼくの限界だった。その時、同じ浪人仲間から、「浪人同士、来年にむけて景気をつけようぜ」と麻雀に誘われたときは何だかホッとした。これで少し休息が取れる。もう医学部を受験しなくていいんだ、そんな気になった。それからあとはご覧の通りさ」
「じゃ、経営学部に入ったのはなぜ?」
「未練だよ。医学部に入れないのは、はっきりと自覚していた。ぼくには医療で人を助けたいという気持ちがなかったんだ。でも、りっちゃんと結婚して、総合病院をつぎたいという気持ちは心の片隅にまだ残っていた。だから、経営学部に行けば、病院の経営をもしかしたら許してくれるんじゃないかと、一筋の可能性にかけてみたのさ。ま、一笑に伏されるのはわかっていたけれどね」
「今からでも、何とかならないかな? 期限が過ぎても医学部を目指しているなら、わたしが何とかおじいちゃんを説得するから」
「うるさい! もう黙ってくれ!」男の声が一段と高くなって、辺りの闇を震わせた。
里都子さんが殴られるかもしれない。そう思うと、矢も盾もたまらず、おれはフランス窓の扉をガタガタ開けて、外へ飛び出した。
出た先には、黒い人影が立ち塞がっている。その人影が、おれの立てた音を聞いて、くるりと振り返った。部屋の明かりが、その顔に当たる。真如堂ですれ違ったあの男だった。その男の肩越しに、里都子さんの困って泣き出しそうな顔が目に入った。
男は、すぐに顔を戻すと、左手の握った拳の親指を後ろ様に突き出して、里都子さんに
「誰、この人?」というような仕草をした。
〈4〉
「それじゃ、流れを戻して、おれが里都子さんを残して真如堂を後にしたところから話しを続けることにするよ。ここから最後の別れのところまで、時系列でノンストップに語るつもりだ。じゃ、いいかい」
わたしは、みんなが、ゴクリと一息にビールを飲むのを待って、おもむろに話し出した。
「おれが、真如堂の総門を出て石畳を歩いていくと、夕暮れの薄闇の向こうから、コツコツとステッキの先を響かせながら、長髪のほっそりとした男がこちらにゆっくり歩いてくるのが見えた。特に変な感じがしたわけではない。しかし若いのに足取りの妙にゆっくりしているところが気になった。
もちろん観光客なら、あたりを見回して歩くから、足取りがゆっくりでも、少しもおかしくはないだろうが、およそ観光客に見えそうもないその男は、あたりを見まわすことなく、自分の数歩先をみるようにして俯いたまま、ただひたすらまっすぐに進んでくる。おれは石畳の右側を歩いてゆく。男は、同じ側を歩いてくる。このまま行けば、ぶつかってしまう。だが、男は決して足先を変えようとしない。おれは、もともと右側を歩いて自分が正しいと思っているから方向を変えるつもりはなかった。しかし、ためらいなく近づいてくる男に、おれは少し恐怖を感じて、ぶつかる一瞬前に横に一歩飛び退いた。
男は、少しも動じる気配がなく、まるで無関心にこれまでの調子で通り過ぎて行く。おれにすまないなどという気はないらしい。だいたい、おれが避(よ)けたことさえ気がついていないかもしれない。
おれは、その男の常識のない態度に何だか憤りを感じ、振り返って、総門の向こうに消えていく後ろ姿をじっとにらんでいた。何という頑なさか。
部屋に戻っても、おれは気がくさくさして落ち着かなかった。仕方なくコーヒーを入れて、読み差しのスタンダールの『パルムの僧院』を手に取って読み始めるとやっと気分が爽やかになってきた。
そのときである。庭先の砂利を踏みしだく、忙(せわ)しい靴音が近づいてくるのが、耳に入った。やがてフランス窓の向こうで音が止むと、今度は怒りを抑えた、男女の言い争うような声が響いた。
声を押し殺して話しているので、話の文脈まではわからないが、お互いの会話のやりとりは比較的よく聞こえてくる。何で、おれの部屋の前でこんなことが起きるのか? おれは、理解できぬまま、恐れ戦いて耳を凝らした。場合によっては警察に通報した方がいいのかもしれない。そんなことまで考えた。
「どうしてわかってくれないの?」女の声だ。
「わかってないのは、そちらのほうさ。ぼくがどんなに苦しんだか、りっちゃんは、本当にわかっているのかい?」今度は男の声だ。女の声は里都子さんにまず間違いないだろう。
「だから、何を苦しんだの? 言ってくれなきゃわからないわ」
「君は知らないだろうけど、ぼくがこの件を内諾してから、家族の様子が次第におかしくなって来た。
兄は長男で父の医院を継ぐことになっている。だから口には出さないけど、昔からりっちゃんのことは大好きで、状況が許せば自分が許嫁の第一候補に名乗り出たいとさえ思っていた。それは、ぼくが誓約した後でも変わっていない。兄はぼくのことが羨ましくて、羨ましくて、憎悪を感じるほどなのだ。だからこそ、事あるごとに、ぼくに辛く当たって来る。
父は父で、昔、きみの母親に気があった。ところが、きみの母親は、まるで大風に吹き倒されるように恋人のもとへと去ってしまった。まあ、これも口には出さないが、父は今でもそのことを恨んでいるようだ。ところが、ぼくを介して古川家の縁者となるのがよほどうれしいらしい。だから自分の妻がそれをどう思うかなど少しも想像できてはいない。全く愚劣な話しさ。
母は母で、そんな夫の嬉々たる姿を見て、愉快になれるはずがない。以来わが家は、お互い誰も口を聞かず神経だけをピリピリさせている。その中にあって、精神的に追い込まれたぼくに何ができる? 全くの針の筵(むしろ)で、勉強など、とても手につかなくなった」
「それなら、どうしてすぐに誓約を破棄しなかったの?」
「いいかい、ぼくだって、きみが予想する以上にきみのことが好きなんだぜ。だから、断るなんて選択肢はなかった。しかも、成績は上々だったから、このまま行けば楽勝だと思った。これが躓きの始まりさ。なんだか、もう人生の希望が叶ったような錯覚に陥ってしまったんだ。だから、うれしさに心が浮き立って、いよいよ勉強に身が入らなくなった」
「でも、まだ二浪のときなら、あなたが入れる医学部はいくつもあったでしょう? どうしてレベルを変えたりしなかったの?」
「りっちゃん。ぼくにも、相応のプライドはある。だって、二つ家族は、ぼく以外みんなエリートなんだから。落ちこぼれたぼくが、さしたる努力もせず、お情けで、実力以上の何もかもを譲り受けたら、それこそ罰が当たりそうだし、お互いの家族にも顔向けができない。「おまえは、偶然落ちていた身に余る幸運をただ拾っただけだ」なんて一生言われるのはごめんだからね」
「そこまでプライドがあるなら、どうしていつもお金を借りにくるの? かなりな高額だけど、いったい何に使ってるの? 貸すのがいやだから言っているんじゃないのよ。あなたがこれからも続けて頑張るつもりなら、いくら出したってかまわないと思っている…でも、その前に、することがあるんじゃない?」
「いったい、何をすればいいって言うんだい? ぼくはもう詰んでるんだぜ。二回目に落ちた時がぼくの限界だった。その時、同じ浪人仲間から、「浪人同士、来年にむけて景気をつけようぜ」と麻雀に誘われたときは何だかホッとした。これで少し休息が取れる。もう医学部を受験しなくていいんだ、そんな気になった。それからあとはご覧の通りさ」
「じゃ、経営学部に入ったのはなぜ?」
「未練だよ。医学部に入れないのは、はっきりと自覚していた。ぼくには医療で人を助けたいという気持ちがなかったんだ。でも、りっちゃんと結婚して、総合病院をつぎたいという気持ちは心の片隅にまだ残っていた。だから、経営学部に行けば、病院の経営をもしかしたら許してくれるんじゃないかと、一筋の可能性にかけてみたのさ。ま、一笑に伏されるのはわかっていたけれどね」
「今からでも、何とかならないかな? 期限が過ぎても医学部を目指しているなら、わたしが何とかおじいちゃんを説得するから」
「うるさい! もう黙ってくれ!」男の声が一段と高くなって、辺りの闇を震わせた。
里都子さんが殴られるかもしれない。そう思うと、矢も盾もたまらず、おれはフランス窓の扉をガタガタ開けて、外へ飛び出した。
出た先には、黒い人影が立ち塞がっている。その人影が、おれの立てた音を聞いて、くるりと振り返った。部屋の明かりが、その顔に当たる。真如堂ですれ違ったあの男だった。その男の肩越しに、里都子さんの困って泣き出しそうな顔が目に入った。
男は、すぐに顔を戻すと、左手の握った拳の親指を後ろ様に突き出して、里都子さんに
「誰、この人?」というような仕草をした。
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学