小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

京都七景【第十八章】後編

INDEX|13ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

〈人間社会の不平等がいつ始まったかを知るには、まず人間の始まりを知らなければならない。人間はその始まりから不平等だったのか? それを知るには、まず、文明の進歩が人間に与えたものを取り去って、原始の自然が人間に与えたものを考えればいい。そうすれば、自然が、他の動物種と同様、等しく人間にわけ与えた、二つの基本的なもののあることがわかるだろう。

 一つは、自己の安寧と保存を求める欲求(ただし、利己心とは区別される)
 もう一つは、同胞が滅び、あるいは苦しむのを自然と嫌悪する感情、つまり憐みの心。
この二つが、組み合わさって、人間の政治的基盤や道徳的基礎となるのだ〉と。

 もちろん、これはルソーの思考実験ですから、原始時代の人間が、実際この通りだったとは言えないかもしれない。でも、ルソーは、当時、未開社会を旅した旅行家の、手に入る限りの旅行記や民族誌を読み、過去の学者や歴史家の残した、いくつもの記録や博物誌を参照した上での仮定ですから、全くの空想だとは言えないのじゃないか。いずれにしても、おれには、事実もそうあってほしいと思えるほど魅力的な説ですけどね」
「え? ルソーってそういう思想家だったの。そう聞くと、人間への不信が薄らいで、なんだか心がほっとするわね」
「そうでしょう。何しろ人間については性善説ですからね、ルソーは」
「いい話を聞かせてくれてありがとう。野上さんは、こんなふうにいつも相手の気持ちを察して、さりげなく勇気づけてくれるところが素敵なのよ。でもね、たぶん野上さんも気づいていないでしょうけど、他にもう一つ素敵なことがあるんだけれど、わかる?」
「いえ、残念ですが全く想像がつきませんね。おれには、ねらって素敵なことが話せるような気の利いた才覚はありませんから」
「ううーん、確かにそうかも。さすがに自己分析が行き届いているわね。それに、私も最近思いついたことだから、想像がつかなくて当然なのよ。でも、偶然、野上さんの話に出て来たからうれしくなっちゃった」
「どんなことか、聞いてもいいですか?」
「ええ、もちろんよ。ここのところ、家族のしがらみがいろいろあって疲れちゃったでしょう? だから、もっと昔々の、人間がおおらかだった時代のことが学びたくなったの。そうしたら、例のニーチェ講義の院生が教えてくれたのよ。

〈もし、ニーチェに行き詰まった感じがしているなら、前世紀にできた、まだ新しい学問、文化人類学をやってみてはどうだろうか。文化人類学は、西欧近代の価値観の支配を批判して、人類に別な生き方の可能性があることを示そうとするところから生まれてきた。そういうところはニーチェとよく似ている。
 だが、方法と目標は違っている。ニーチェは知的認識を止めるところから始めるけれど、文化人類学は、非西洋の原始社会や未開社会(最近は無文字社会ということも多い)の研究から初めて、人間社会の理想的なあり方を探求しようとする。
 今は、文献研究より、野外調査(フィールド・ワーク)が主体になっているようだから、狭い価値観に縛られずに、未開社会のフィールドワークに参加したら、もともと社交好きな里津子さんにはきっといい知的刺激になると思う。幸い、ついこの間、フランスの世界的文化人類学者、レヴィ・ストロースが来日していたので、きっとその講演筆記が出るはずだから、是非それを読んでみたらいい。
 ただし、何の準備もなく読んでも、すぐ理解できるとは限らないので、せめて次の著作くらいは読んでおくこと〉

 と言って紹介されたのがレヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』というわけ。さっそく買って、今読んでいる最中。おもしろいわ。
 そういうことだから、未開社会を記録した旅行記を読んで人間の根本に備わる感情を提示したルソーが、何だか文化人類学の先駆者に思えて、私にはあまりにタイムリーだったから、ルソーが私の背中を人類学の方へすっと押しくれたように感じて、とてもうれしくなっちゃった。ま、かなりな我田引水だとは思うけれど」
「いや、必ずしも我田引水じゃないかもしれませんよ。というのは、ルソーの生きた一八世紀のヨーロッパは科学の世紀と言われて、人類の進歩が強く信じられていた時代です。要するに、原始時代の人類は知性もなく野蛮であり、今の人類はそれからすでに大きい進歩を遂げていると考えるのが一般でした。だから、この世紀の哲学者は、その考え方に立って、人類全体が進歩するように、個々人の迷蒙を啓いて知性を高めるのが自分たちに課せられた役割だと固く信じていました。いわゆる啓蒙主義ですね。
 ところが、そういう哲学者たちの中で、ルソーだけが、人間は、原始時代には、お互い仲良く幸福に暮らしていて争うことはなかった。文明の進歩が人間を悪くしたのだ。特に、そこにある土地を柵と綱で囲い込んで自分のものだと主張した時から人間は悪くなったと言っています。これって今の文化人類学の考え方とかなり共通するものがありますよね。だから、里都子さんの考え方は決して我田引水とは言えないと思います。けっこう的を射てるんじゃないですか」
「まあ、ほめてくれるのね。野上さんにほめられるなんて滅多にないことだから、とってもうれしいわ。文化人類学に頑張っちゃおうかな。いいえ、だめ、だめ、軽率な行動は命取りになる。里都子、ここは落ち着くところよ(これは、自分への呼びかけ)。
 その前にまず、十二月二十八日の行事を無事終わらせなければ。文化人類学はそれからでも遅くはない。どうしたって明日は明日の風が吹くんだから。
 じゃ、もう、帰るわね。お祖父ちゃんが、まだ帰っていないといいんだけど。ま、無理でしょうね。野上さん、約束の二十八日の午後をお忘れなく。じゃ、そのときにまた」

 そう言い残すと、里都子さんは、ドアを細めに開けたまま雨の降る暗闇の中へ急ぎ足で
姿を消した。おれは、そのドアの隙間を、音を立てないようにゆっくりと閉めた。


(6)

 さて、ここからは、起きた出来事を淡々と申し述べるにとどめ、その解釈と判断は今夜この場に居合わせた各人の想像に委ねたいと思う。というのも、おれ自身、判断のつかないことが次々に起きたからだ。
 以上を前置きとして、さっそく十二月二十八日へと向かおう。
 さて、二十八日の朝方、おれは、前夜から、何か良からぬことでも起きはしないかという不安な気持ちでよく寝つかれず、やや寝不足気味に目を覚ました。
 ところが、窓に差し込む日の光は、おれの予感に反して、意外なほど明るい。カーテンの隙間からのぞくと、確かに晴天である。
 しかし、空を過ぎる白雲の動きがいつもより速いうえに、それがまた次々に太陽を遮るから、照ったり陰ったりの間隔が短くなって忙しない。それは、上空に強い風の吹いていることを示して、大気の不安定さを予感させる。それに空気は澄み切っているとはいえ、この身を切られるような寒さには、どうにも一筋縄では行かない荒天が暗示されているのではあるまいか。
 ま、なんでも疑おうとすれば疑えるものだが、それ以上に、事態はおれの予感を超えて先に進んでいた。目を凝らしていると、景色に何だかちらちら白いものが混ざっている。