京都七景【第十八章】後編
ある。外界に、気がかりなこと(=関心があることと言い換えてもいい)を見つけ出せばいい。そうすれば心の向きは変わるだろう。だが、向きを変えただけでは、元に戻る可能性は高い。戻らないようにするには、その気がかりを解決してしまうことだ。解決すれば、心は気分良く外界に止まるだろう。
だから、解決は、簡単な気がかりから始めるのがコツである。一つまた一つと、すんなり解決がつけば、心が幸福を感じる連鎖は次々と続いて好循環となり、気力は自ずから回復してゆくはずである。
と、かつて無手勝流に試みた方法を思い起こしながら、他に心当たりもないので、この方法を取ることにした。
話す際には、心の内面へ沈んでいくような受け答えは、おれからするのは極力避け、もし、そうなる場合も、相槌を打つか、会話の最後の言葉を繰り返すかして受け流し、なるべく外に向かって話が発展するよう、聞き方にも心を砕いた、つもりである。
もちろん、心を砕いたからといって、その通りに話が進行するわけではない。やはり、いろいろの紆余曲折や逸脱はあった。が、しかし、ひとまず、里都子さんの気持ちは、次の二つの行動を目標にして、外界へと向くようになった。
その次第は、こんな会話から始まった。
「こんな時、ぶしつけな質問をしてすみませんけど、今この時点で、これだけはどうしてもやっておきたいことって、何かありませんか? 例えば、誰かを殴ってやりたいとか?」
「あるわよ。関係者をみんな、ぶん殴ってやりたい。でもね、そんなことをしたからって事態は決して好転しないでしょう? だから、そんなことはしないの。
ただ、母は、母だけは許せない気がする。だから、これまでの恨み辛みを込めて、思い切り罵倒してやりたい。
でも、それは、娘の私に許されない残酷なことかしら? 母が祖父の犠牲者だから? とんでもない。私こそが、母と祖父の犠牲者だわ。母は何も犠牲になんかしていないもの。好きな人と結婚し、好きな人に裏切られ、病気になり、祖父に救いの手を差し伸べられ、それを受け入れた。そのどこに犠牲者の姿がある?
その救いの代償に母は私を生贄にした。でも、私はそれでもよかった。私の目標はただ母をよろこばせることだったから。母と祖父の確執が解消され、母のよろこぶ姿を見るのが私の最終目標だった。それを私も心からよろこびたかった。だって、そんな確執の日々からいちばん解放されたかったのは、この私だったから。解放されて、母と一緒に、もっと広い世界が見たかった。
でも、母は先立ってしまった、私を犠牲者のまま祖父に残して。自分が辛い思いをしたはずなのに、その辛い思いだけ私に押しつけて。なぜその思いから私を解き放ってはくれなかったの? 母こそ、その立場にいちばん苦しんだ人のはずなのに?
しかも、仕方ないとはいえ、私の声の届かないところに行ってしまった。まだ、生きていれば、私が怨みを言うことはできる。できるとわかっていれば、私だってこんなに母を恨む気持ちに苛まれることはなかった。いつでも母に文句を言う機会はあったろうし、母から詫びを言われて、しぶしぶ心を慰めることもできただろう。
でも今は、死んでしまった今となっては、そんなことさえできないじゃないの。おまけに、後継を別の人に任せることもできないし、後継を降りることさえもできない。すべてが私の肩だけにかかっている。しかも、責任の大半は、母と祖父にあるというのに!
そう思ったら、いてもたってもいられなくなって、なんとしてでも、母に会って恨みの言葉をぶつけたいと思うようになった。そうして、その計画を立てた。目下、その計画を進めているところ」
「あの、その計画って、もしかしたら、法律に触れるとか公序良俗に反するとか、そういうものじゃないですよね?」
「まあ、ずいぶん意味深なものいいをするのね、野上さんこそ、何か想像してる?」
「『椿姫』という小説は知ってますか? フランス人作家、デュマ・フィスの」
「ええ、読んだことはないけど、名前ぐらいなら。その『椿姫』がどうかしたの?」
「いえ、知らないならいいんです。でも、言わないでいると後悔しそうだな。それじゃ、おれの懸念の触りだけ、軽く言っておきますね。
その小説の結末に、椿姫が亡くなった後で、彼女の真心を知った恋人が、椿姫の墓を暴いて、亡骸を抱きしめながら後悔の涙を流すという場面があるんです。
里都子さんの場合、愛憎が逆ですけど、まさか墓を暴いて、お母さんの遺骸を抱きながら恨みの言葉を投げつける、なんてことはしませんよね?」
「なるほど、そういう方法もあるわね。でも、私のは、もっとおとなしい宗教的方法だから大丈夫。ただし、効果のほどはわからないけれど。ま、それでも準備だけは、ほぼ完了に近づいているわ。
あっ、そうだ。話はそれるけど、野上さん、年末は帰省する?」
「いえ、下宿で年を越すつもりです。やらなきゃいけないレポートがいくつも溜まっちゃって、帰省している余裕がないんですよ」
「いつ頃が、いちばん忙しい?」
「そうですね。年内と元旦は少し余裕があるかな。二日から十一日までの十日間が地獄ですね、何せ締切が全部一月十三日の十七時ですから」
「じゃ、年内は余裕があるのね?」
「ええ、二日から妙に忙しい分、年末がひどく暇なんです。何しろ図書館が二十八日の午後から休館になるでしょう、お手上げなんですよ」
「そのお手上げに乗じて、頼みごとをしても迷惑じゃない?」
「ええ、全然。自分でも手持ち無沙汰で、どうしようかと困っていたところです。なんでもやらせてもらいますから、なんなりと申しつけてください」
「相変わらず、優しいのね。そんなに優しいと、図に乗った私が何でもどんどん頼んじゃうわよ」
「望むところです」
「ありがとう。本当に感謝している。このことは一生忘れないわね」
「一生忘れないって、里都子さんはどこかへ行ってしまうんですか?」
「いいえ、そんなことないわ。でもどうしてそう思うの?」
「一生忘れないという言い方は、もう一生会えないことを前提にしているように聞こえますから」
「あら、そんなことないわ。決して忘れないように、しっかり心に刻んでおきますって意味よ。だって野上さんには、まだまだこれからもたくさん会いたいもの」
「恐縮です。社交辞令でもうれしいですよ。で、何をお手伝いすればいいんですか?」
「それが、まだ詳しい内容は話せないのよ。その日が来るまではね。でも、いつなのかは言える。十二月二十八日。以前から、その日にすると決めていることがあるの。だから、当日の夕方から深夜にかけて、私を警護してもらえないかな?」
「け、け、けいごって、穏やかじゃありませんね。じゃ、いよいよ、例の二枚舌男に復讐することを決めたんですか?」
「まさか。そんなわけないでしょ。もっと穏やかなことよ。ただし、ことの成り行き上、警護してくれる人が、どうしても必要なの。しかも、それを秘密にしてくれる人が。
ね、だから、最適任者は野上さんしかいない。ここは理由(わけ)を聞かずに、ただ、うん、と言ってほしいの。私の一生のお願い。あ、また一生って言っちゃった。この一生は、心の底からって意味よ。聞いてもらえる?」
作品名:京都七景【第十八章】後編 作家名:折口学