メイド女房アフリカ滞在記
バッテラが食べたいとか言っているが、そんな材料はない。夕食は残りのうなぎで棒寿司を作る。それからだし巻き卵、冷奴。そして正弘作の味噌汁。彼は食卓の用意がまだ途中で美琴が席に着けないうちに、「食べるよー」と勝手に食べ始めた。これでよく美琴にお行儀がどうの、とダメだしできたものだ。美琴が思わず「待てないのねえ、子供みたいね」と一言言ってやったが、「腹減って死にそう」と全く意に介さない。出しもいれずに作ったみそ汁は微妙だったのだが、本人は「うめえ」といって食べている。これまで初心者の美琴の料理を文句も言わず食べていたのは単に彼の味覚音痴ゆえか?
ほんと、子供なんだねえ、と美琴は思う。以後はひたすら漫画を読んでいた。この小康状態が妙に不気味だ。今、自分たちはお互い問題に触れず取り繕って微妙なバランスを保っているシーソーのようなものだった。大きな動きをすればたちまちバランスを崩してしまうから常に緊張していないといけない。しかも支点を支える溝がない。この夫婦にはとっかかりが全くないのだ。お互いを透明人間のように無視している。
ここでの生活は美琴にとって実体のない夢のように思えてきた。生きている実感すら希薄だ。毎日が覚めない悪夢の連続、このままでは眠りの世界から永遠に戻れなくなる。
現実味が薄いのは季節が移ろわないからだろうか。
永遠の夏、終わらない夏休み、毎日入れる生ぬるいプール、ムッとする草いきれ、腐った食べ物の匂いが漂うマーケット、車に乗っていても腕が日焼けする強烈な日差し、夕暮れの空を背にしたヤシの木のシルエット、咲き誇るブーゲンビリアやハイビスカスの鮮やかなピンクや赤の色彩、プールサイドのヤシの木の葉擦れの音、いつも渋滞する排気ガス臭い道路、その道路沿いの空き地に店を出す瓶入りゆでピーナッツの屋台、濁ったラグーン、橋の上でぬるい水をはった盥で魚を商う女性たち、繰り返す停電、発電機のうるさいモーター音、フラットの裏側に廃棄されたゴミの山と時折それを焼却する煙…
乾季に入りますます暑くなる西アフリカ。ラグーンは藻が発生して緑色に濁り、魚が取れなくなるという。ベランダのブーゲンビリアには名も知らぬ小さな鳥がやってきて細い枝をしならせ、ムクドリ位の大きさの鳥はヒャッホーと鋭い声で鳴きながら木から木へ飛び移り、プールでは子供たちがバシャバシャ騒ぎ、一階のボーイズクォーターではガンガン音楽をかけて騒ぐ声が聞こえる。毎日何の変化もなく繰り返される日常なのに物価は上がり、車は増え、ガソリン価格はいつの間にか五倍になり、魚も減りうちの冷蔵庫は空っぽになっていく。
うちにはコーヒーすらない。輸入物は高くて買えないし現地のものはアイスコーヒー用なのか焙煎が過剰でおいしくない。コーヒーなんかいっぱいあるよ、と正弘は言っていたがどこにしまい込んでいるのか出してきてはくれない。以前エチオピアに駐在し実家に樽で生豆を送っていた彼がコーヒー嫌いとは思えないが、美琴はこの家で持参した紅茶がなくなった後は友人のロンドン土産の紅茶しか飲んだことがなかった。
湿っぽい草の匂いは日本もここも同じ夏の匂いだが、美琴は蚊取り線香や花火、風鈴、朝顔、ビールに枝豆が懐かしかった。階下のクォーターでは石油コンロを使っているのでしばしば石油の匂いが漂ってくる。違うんだ、これは。石油の匂いは冬なんだ、と美琴は思う。季節感は嗅覚で感じるものなのだ。雪の匂いとかあるじゃないか。でもここには冬がない。春も秋も。あるのは雨季か乾季かの差があれ、夏だけ。
脱出まであと五日。月曜日。
昼に引っ越し屋はいつ来るのか美琴が聞いたのがきっかけで暗い雰囲気に。
長い昼休み、正弘は昼寝し美琴は引っ越し荷物に添える内容を表す書類を辞書片手に英文で記載する。午後は婦人会でバザー作品の仕上げをする。
夜帰宅した正弘は
「チケット取れたってさ」
とエイリアンカード(外国人登録証明書)を寄越した。
暗い雰囲気でツナコロッケ、マッシュルームのスープ、ほうれん草のバターソテーの夕食を食べた後、正弘は「友達んとこにいく」とお菓子をもって車で出かけて行った。
美琴は水泳し、シャワーを浴び、ワープロに向かい、缶ビールを二本飲み、ヴァイオリンを練習。正弘は十一時半ごろ帰宅したが遅くまで漫画を読んでいた。寝たのは3時過ぎかそこいらだろう。
脱出まであと四日。火曜。
正弘は夜更かしで眠いのだろう、美琴が起こすが返事もしない。今度はなんで拗ねたのだろう。友達に何を言われたのか知らないが、美琴は昨夜は何も言ってないから美琴のせいではない。
昼もひたすら漫画を読んでいた。
美琴は午後3時に友人宅へ行く予定だったのでその前に東京の友達に電話を入れた。特別支援学校で教師をやっている友人は「それ、ダウンの〇〇ちゃんとそっくりだわ」頑固な性格が多いダウン症の子供は、拗ねて固まってしまうとどう説得しても動かない子がいたりするという。障害に限らず黙り込んでしまう子供には、本当に何も考えてない場合と自分の考えがあっても表現がうまくできないだけのタイプがいる。美琴はこれまでずっと夫を後者のタイプだと思っていたのだが、誘い水もかけ時間を与え待ち続けても無反応のまま。よくよく聞いてみたら、どうしたいのか、何が自分の幸せなのか、相手の幸せとは何か、ということもどうも考えていないようだった。
でも、たとえわからなくても、ここまで切羽詰まった状況になれば必死に考えようとするのではないのか。眠って意識をオフにしたり漫画を読んでいる場合ではない。逃避してもどうにもならないはずだ。
美琴としては本当は帰国前に少なくとも帰国してすぐに荷物が東京に着くように手配して欲しかった。それを正弘は「三か月以内には着くように出すよ」と今までだらだらと引っ張ってきた。日本に着いてから美琴が再びここに戻ると期待しているのだろうか。それなら出発まで一週間に迫った今、美琴を説得しなくていつするというのか。いや正確にはあと六日だ。本当に最後の時間だというのにも関わらず、夜遅くまで外出し、美琴がかける言葉にすげない返事しかせず、一体どうして美琴がここに戻ると期待できるというのだろう。
気持ちを改めてきちんと話し合うならまだ考えもしようものを、これではますます美琴は嫌になるだけだ。
午後は最後に残った信頼できる友人数人と別の友人宅へ訪問し、帰宅したらテーブルにバラの花束とお元気で、というカードが置いてあった。メイドが受け取ったのだろう。興味本位で関わっていたものの、いざとなるとフェードアウトしていった友人の一人からだった。別れを言いに顔を合わせるのは気が引けてか、花だけ届けさせたらしい。
夕食、鯖の味噌煮、鯖のおろし煮、春雨のサラダ、とろろ昆布の吸い物を正弘はもくもくと食べている。
脱出まであと三日。水曜日。
あれだけ「荷物は三か月以内に着く」と言っていたくせに、正弘は昼に帰宅した時いきなり引っ越し屋は明日来る、と言い出した。美琴は明日はバザーがあるから絶対家にいられないから無理だ、と翌日に延期してもらう。
作品名:メイド女房アフリカ滞在記 作家名:ススキノ レイ