メイド女房アフリカ滞在記
帰宅が夕刻六時位になってしまったが、家に入るとそこら中が魚臭い。なんとメイドが冷蔵庫内の鯖を焼き魚にしていた。鯖は美琴はみそ煮にするつもりだったが、ペペロンチーニのシーズニングを振りかけられコンロで焼かれていたので換気扇を回しても屋内に鯖を焼くにおいが充満している。おからの煮物を作るのに野菜を切っておいたのだが、烏賊をレンジで解凍するはずがエリザベスはトースターにしていた。まあ帰宅が遅れたのは美琴が悪いのだしメイドなりに気を利かせたつもりだろうが、日本語が読めない使い方のわからないものを勝手にいじられては困る。美琴が慌てて止めてレンジに切り替える。ガラスの皿を置いた状態でトースターはまずい。彼女は電子レンジを見たことはあっても使ったことはなかったのだろう。
ペペロンチーニ味の焼き鯖は意外とおいしかったが、しばらく家中が臭かった。おからにはピーマンとジャガイモと玉ねぎが入っていて切り方も大きすぎたが、まあ彼女は適当にお料理ができるセンスは持っているということが分かった。正弘一人を残してもメイドが何かしら食事を作ってくれるだろう。英語に堪能な彼が教えればいいのだし。
食後、正弘は三浦さんとテニスをし、夜中を過ぎても戻らなかった。バツイチの先輩と話し込んでいるのだろう、と美琴は思っていたが、実はエルディオさんのところで飲んでいたらしい。誰がどこでどう通じているかわからない狭い日本人社会。どういう話になったのかはおおよそ見当がつくが、エルディオさんもやりにくいことだろう。
十一月十日木曜日、美琴は午前中に社長宅へ、コックの中島さんに「しめ鯖」の作り方を教わりに行った。美琴自身はアレルギーで生の鯖は食べられないというのに、正弘が食べたいと言っていたから、と、この期に及んでわざわざこんなことをする己のお人よしさ加減に自分でもあきれる。中島さんに帰国を告げ、お世話になったお礼をし少し話をした。義理のお兄さんが寿司店を営んでおり、自分の紹介だといえば安くしてくれる、と名刺をもらった。ゴルフ場と寿司屋に顔がききますから、いつでも声かけてくださいとのこと。これはちょっと嬉しい。帰国したらぜひ行かせてもらおう。
午後、農水省の高橋さんが美琴の家にヴァイオリンを弾きに来て、大使館の他の有閑マダムたちを引き込み土壇場で去った彼らの無責任な態度を謝ってくれた。確かに彼女たちの一部は他人の不幸は蜜の味的な興味で美琴の話を聞いていたが、離婚話が具体的に進みだすと、変に関わり合いになりたくなかったようで潮が引くように去っていったのだった。
まあ、他人ってそんなものだろう。そんな中で最後まで美琴に付き合ってくれた水倉さん、元木さん、青山さん、高橋さんあたりを本当の友と呼ぶべきだ。
夕食でご要望のしめ鯖を食べる正弘に美琴は聞いてみた。
「エルディオさん、チケット取ってくれたの?」
「今日は忙しいらしくて連絡取れなかった。今夜電話してみる」
「わかった。まあ旅の途上自分にとっての幸せとは何か?どうすることがお互いのために幸せか、よく考えてね」
と言ったらまた暗くなっていた。
「荷物はどうすればいいの?」
「いつでも家にいる?」
「え?東京のあの住所に送ってくれれば」
「そうじゃなくて来週だよ」
「来週?日曜発になったんだよね?いないんじゃ?」
「違うよ、次の日曜だよ。今度のなんか取れっこないじゃん」
「だってエルディオさん、二三日でとれるって言ってたわよ」
「会社に出す申請書類とか色々あんだよ」
「あ、そう」
そりゃあ手続きがあるのはわかるけど、そんなものとっくにやってたんじゃないのか?十一月の初めから今までの時間で何もやってなかったんかい?と美琴はあきれた。日曜がいいと言ったのは先週で、結局火曜だ、と言ってきたのは三日前、こんどはやはり日曜がいいと言い出し次々延期されていったのだが。
電話すると言いながらなかなかかけないので、
「あまり遅くなると悪いんじゃないの?」
と電話させた。
結局、十五日火曜ではなく十九日土曜発のサベナベルギー航空が取れたとのこと。
「箱、何個あるの?」
「五個。あ、ファックス売っていい?」
「会社の支度金で買ったのは何だっけ?」
「そういうの書いた紙前に渡したじゃん」
「どっかいっちゃったよ」
「あれは折半になるのかしら?」
「だって会社の金だよ!」
「なら置いてくわよ」
あんたのものなんかビタ一文いらないわ、と美琴は頭の中で叫ぶ。
会社から個人に支給された支度金を今更会社の金とか、一体何を言っているのだろう、この男は。請求書を出せば会社の経費で買ってくれたとでもいうのか?そもそもすでに残金を巻き上げているではないか。
こっちは損害賠償請求さえ考えているというのに。
翌日経理の人に電話で確認したところ、一旦会社を離れて支給された現金は個人にゆだねられるそうだ。会社が買ったものは会社の備品だが、個人に渡した支度金というのは会社の備品ではありません、とのこと。
そりゃあそうだよね。普通の常識で考えればわかりきってることだ。この亭主は何を考えているのだろう?美琴から巻き上げた残金は本当に会社に返納したのか聞いてみたいところだ、と美琴は思う。
なら、支度金以外の金で買ったものは全て私のものってことで、持って帰らせてもらいますからね。支度金を英会話学校とクッキングスクールで使っといてよかったよ、とりかえせないもんね。それともシェイクスピアのベニスの商人みたいに脳を切れとでも言うのか?だったらこっちもその投資で料理できるようになって作った料理を食べて太ったあなたの腹の肉を切り取れ、とか言ってやるぞ。
美琴はもうばかばかしくて考えるのも嫌になった。
夜またバツイチ先輩のところへガイドブックを借りに行くといって結局飲み会になったらしい。
<22.脱出までのカウントダウン>
ラガ脱出まであと八日と迫った。
美琴はコックの中島さんに聞いてこの日が角倉商事ラガ支社の新旧社長の歓送迎会だということを知っていたのだが、例によって正弘は美琴には何も言わないでいる。出勤直前に
「今日、何曜日だっけ?」と聞いてきた。うそくさい芝居だ。
「金曜日だけど」
「今夜、あれだって、社長の歓送迎会」
「あ、そうなのね」
だから何なのか、言わない。家で食事作らないわよ。
午前中に美琴はラガ島のサッタビーチまで必要な雑貨を買いに行った。ものすごく値上がりしている。以前八十リアだったキーピングのようなスプレースターチが百七十リアになっていた。もっとも一ドル五十リアだったのが、今では百リアだというから、この国のインフレーションはまだまだ止まらない。とはいえ、米ドルで闇両替している分にはこの物価高でも痛くもかゆくもない。なのに正弘は未だに千五百リアしか寄越さない。闇両替なら千五百円だ。日本で財布に千五百円ぽっち入れて、スーパーでどれだけのものが買えると思っているんだろうか。さらにここのインフレはもっと激しいのに。
作品名:メイド女房アフリカ滞在記 作家名:ススキノ レイ