エーテル論者と天球儀
08.あの夜空
小篠のアパートの郵便受けに、謎の封筒が届いていた。
宛名も差出人も書かれていなければ、切手も貼られていない。裏も表も何の文字も描かれていない。封だけは一応されているが、セロハンテープを雑に貼ってあるだけ。この上もなくただただ平凡な茶封筒。何も書かれていないことから察するに、この封筒は直接アパートの郵便受けに放り込まれたのだろう。
小篠は窓から射し込む陽光を利用して、封筒の中身を探ろうと試みる。何やら厚紙のようなものが1枚。それともう一枚、折りたたまれたコピー用紙のようなものがあることだけは分かる。
少なくともカミソリなどは仕込まれておらず、安全であることを確認した小篠は、封をしているセロハンテープをそっとはがし、手先を突っ込んで中身を取り出した。
陽光で透かした際に得た情報の通り、中身は1枚の厚紙と1枚のコピー用紙だった。まず厚紙を手に取ってみると、ネイビーな色合いの夜空を背景にして、プラネタリウムの施設名称がやや派手な色とフォントで描かれている。そして、端1/4ぐらいのところにミシン線。どうやらこのプラネタリウムの入場チケットのようだ。
一方のコピー用紙は、三つ折りにされたA4の紙だった。開いて中を改めてみると、ネットの地図を印刷したものであることがわかる。地図中のピンの位置を確認すると、同封されていたチケットで入れるプラネタリウムの所在地を示しているようだった。
この中身から察するに、差出人は小篠にこの施設を訪れてほしいらしい。その意図は手に取るようにわかるが、小篠には差出人の心当たりがなかった。それだけでなく、プラネタリウムにも一向に思い当たる節がない。どうすればいいだろうか。朝の心地よい陽気を窓から浴びながら、小篠は伸びをしつつ思案する。しかし、家でいつまでも考え込んでいたって始まらない。陽気もいいし、チケットもあるということは無料でプラネタリウムが見られるということだ。ドライブがてら、ちょっと行ってみてもいいだろう。小篠の思案はそのようにまとまり、30分後にはもう車上の人となっていた。
目的地に着いた小篠は施設の外観を眺める。かなり古くに建てられたようで、野暮ったい外観と黄ばみやさびがあるドームがそびえ立っている。もっと壮麗なものを期待していた小篠はそれを見て帰ろうかと思ったが、無料という誘引力に負け、受付にチケットを差し出した。
「お待ちしておりました」
優しそうな声とともに差し出したチケットを受け取ったのは、さえない初老の男だった。そのしわだらけの顔や小篠に向けている精一杯の笑顔にはどことなく苦悩の跡が見え隠れし、人は良さそうに見えるがどこか受付には向いていなさそうな雰囲気を感じさせた。
「どうぞ。ご案内いたします」
男は受付を出て暗闇に立ち、これまた優しい声音で小篠に着いてくるよう促す。小篠はいぶかしく思いはしたが、とりあえず男の後に付いていった。
十数歩の暗闇を抜けると、上空に巨大な天蓋が姿を表す。前方には観覧者用の座席が左右に6×7ずつ設置され、真ん中には8×8席が並んでいる。しかし、これだけの座席数があるのにもかかわらず、先客は誰もいなかった。
小篠は座席をぼんやりと眺める。するとほぼ中央の座席、中央の左から4番目、前から4番目だけ座席の色が少し違うことに気が付いた。
「その席は、とてもよく見える特等席なんです。今日は他の観覧者はいませんから、ぜひその席にお座りください」
三度、男は優しい声色で小篠に声を掛ける。だが、今回のその口調は優しさの中に、有無を言わせぬ迫力が加わっていた。
小篠は周囲を警戒しながら、そっと色の違う左と前から4番目の座席に腰を掛ける。
その瞬間だった。
カチャリという音とともに、小篠の手足と首は椅子に拘束される。両手首をひじ掛けから、両太ももを座枠から、首を背もたれの上部から、飛び出してきた手錠のような鉄の輪によって拘束され、小篠は完全に椅子に固定されていた。
「……小篠さん。あなたは私の娘、由里を暴行して殺害し、山中に捨てましたね」
男の声はまだ優しかった。だが、高ぶった感情を必死に抑えていることは、気が動転している小篠にもよくわかった。
「12年。ずいぶんかかりましたが、ようやく探し出せました」
そう言いながら男は、落ち着いた手つきで投影機を動かした。暗かった天蓋が一瞬にして夜空に変化する。
「覚えてますか、この空。あなたが由里を乱暴して殺した12年前の11月6日。あの日のあの場所は、こんな空だったんですよ」
男は壊れたように笑い出す。ここまで優しい口調を失わなかった男が、初めて見せた狂気。それを耳にした小篠は、恐ろしさに顔をひきつらせながら叫ぶ。
「どうする気だ!」
ケラケラ笑いながら男は答える。もうおかしくておかしくてたまらないといった風情で。
「小篠さん。あんたも由里と同じように、この夜空を見ながら苦しみ抜いて死んでもらおうと思っているんです」
この言葉の直後、小篠の前後左右の座席がガラガラと崩れ落ちる。その後には、4本のチェーンソーが天を向いて立っていた。
「うっ、うわぁ」
小篠はこれから起こることを察知し、叫び声を上げながら失禁する。まるでそれが合図だったかのように、チェーンソーは刃の回転を開始し、残酷な緩慢さで小篠に迫ってくる。
「あなたを凌辱する趣味はないので、代わりに四肢を失ってもらいます。まずは両脚。次に左腕、右腕の順です。最後に首に刃がやってきます。もっとも、のどに刃が行き着く前に絶命しているでしょうね。誠に残念ですが」
言い終えた男は再び笑い出す。小篠は動かせない首で天蓋の景色を無理やり眺めさせられていた。酸鼻を極める処刑が始まるまでのしばしの間、小篠の虚ろな目には残忍な所業をなした日のあの夜空が映っていた。
作品名:エーテル論者と天球儀 作家名:六色塔