エーテル論者と天球儀
06.アパートから終幕へ
男はパタリと本を閉じると手前の古めかしいちゃぶ台にていねいに置き、ほーっと長く息をはいた。
狭くて目ぼしいものは何もない、アパートという名のしがない住み家。彼はそこで、ワンルームのほぼ中央に位置するちゃぶ台を前にして少しばかりうつむいてあぐらをかいていた。
薄汚れた粗末なシャツとこれまた薄汚れたジャージ。そんなさえない部屋着に身を包み、彼は何かはんすうをするようにもう一度ほーっと息をはいた。それはまさしく、大きく心を揺さぶられるような感動的な事象にであい、思わず行ってしまった行動だった。
男はちゃぶ台の隅に置かれているタンブラーを手に取り、その中に残っていたお茶を一気に飲み干す。かき乱された心を落ち着かせるために取った行動だったが、それでも彼の心の波風はなぐことはなく、荒い鼻息で何かを一心に考え込んでいる。
そのような何かに心を打たれている男の横顔、いや、正面から見ても大半の人は同じような評価を下すのだが、は、決して美しいとは言いがたかった。
大きめの顔、それをさらに引き立てる立ち耳。覆うひげはかみそりを受け付けぬほど太く、毛抜きで対応するには多すぎる量。それに反比例するように薄くなった頭髪。そこに、落ちくぼんだ小さい目、高くなく毛穴の汚れた鼻、薄くて紅みのない唇がくっついて、彼の頭部は構成されていた。
もちろん、美しさという概念は相対的なものだ。このような彼の容姿を好いてくれる人もいるかもしれない。だが、決して広くない交友範囲の中で、今までそのような人に出会うことはなかった。それが彼の積極性を失わせて卑屈な思考を増幅させてしまい、さらにその思考が外見ににじみ出るという一種の負のスパイラルに陥っていた。
いや、魅力は決して容姿だけでは決まらないだろう。そういう意見もあるかもしれない。しかし、彼は偉業を成し遂げるための自信も喪失していた。むしろ、人から嫌われる自分は成功してはいけないんだ。そのような後ろ向きな観念に縛られていた。それゆえに、彼はあまり人目につかないような日雇いや短期バイトで命をつなぎ、どうにかこうにか初老と呼ばれる年まで生きてきたのだった。
そのようなうっくつした人生を送る彼だったが、それでも譲れない願いというものを持っていた。人はおよそ手が届かないものほどほしがる生き物なのかもしれない。彼もその例に漏れず、一つの願いを心の奥底に抱え続けていた。はるか昔、学生の時にであった初恋の異性と運命的な再会を果たし、ロマンチックな愛を育みたいという願望を。
彼はこの望みを誰にも、それこそ今は亡き両親にすら打ち明けたことはなかった。自分のようなものには分不相応だという自覚を強く持っていたし、何よりもその初恋の女性に失礼な気がした。それだけではない、同性に言えば間違いなく嘲笑の的になるだけだし、異性の前で口走ってしまった日には「キモい」という語が山びこのようにこだましてくるだろうという確信があった。
甘くとろけるような願望を持ちながら、怖さと気恥ずかしさで誰にも打ち明けられない。それどころか、相手の女性が今どうしているかすらもわからない。年を経て老いが忍び寄り、ますます自分が思うようなロマンスは遠ざかっていく。そんなジレンマに彼は疲れきっていた。
そんな客観的に見たら「詰んだ」ように見える彼が、今、本を読んで感動に打ち震えている。おおかた、脳内のロマンスを補強できるような大恋愛小説でも読んだのだろう、そう思われる方がほとんどかもしれない。
それは半ばは当たりだが、半ばしか当たりではない。彼の恋愛観が少しばかり変わったことは事実だが、それは他者が織りなすラブロマンスによってではなかった。では、何が彼の脳を揺さぶったのか。
彼の読んだ本は宇宙に関する本だった。何の気なしに図書館で借りたその本を、パルサーだのクェーサーだのダークマターだのイベントホライズンだのといった聞き慣れない用語をかい潜りながら読み進めるうちに、彼の琴線に触れる文章が飛び込んできたのだった。
現在、宇宙の最期にはいくつかの説が提唱されており、その中の一つに「ビッグクランチ」と呼ばれる説が存在する。その説によると、現在、膨張を続けている宇宙がどこかの時点で収縮に転じ、宇宙の全ては収束していくそうだ。だが、現在の予想では、どこかのタイミングで宇宙が収縮を始める可能性は低く、膨張を続ける可能性が高いという考えが優勢のようだ。
この文章を読んだ瞬間、男に電撃が走った。宇宙の最期、それがどれほど遠い未来のできごとなのかは数字で表されてもピンとこない。だが、それでも俺はあの女性と最後に一緒になれるんだ。むしろ、気が遠くなるほどの年月を経た後に一つになれるだなんて、すてき過ぎる話じゃないか。
後に続く文章では、宇宙が収縮する可能性は低く、膨張説が主流らしいとある。その文章も目に入ってはいたが、男はそんなことはどうでも良かった。俺は宇宙が収縮するのを信じる。気が遠くなるほど先の未来、自分の肉体や思念すらもすっかり失われた先の宇宙で、思い人と一つになる。他の有象無象とも一緒くたになるんだぞと言われようと、それを全身全霊で信じるんだ。
男はしがないアパートの片隅で、まだ見ぬ未来のセンチメンタルな宇宙の終幕をいつまでも夢想し続けていた。
作品名:エーテル論者と天球儀 作家名:六色塔