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京都七景【第十七章】前編

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「そう、いつもいつも、私の意見に突っかかることはないだろう? 私は才能の話をしているんだ。才能のある者に才能をほめたたえて何が悪いのか、私にはわからん!」
「持っている才能が、その人の求めているものと一致すれば、それはうれしいでしょうけど、望んでなければ迷惑なだけよ。ね、野上さん、そうでしょう?」
「難しいですね、人から言われて気づく才能もあるからなあ」
「ほれ、見なさい。私は野上くんの気づかない才能を見出したのかも知れないじゃないか」
「いいえ、すみませんが、それは違います」
「まあ、はっきり言うのね」
「はい。だって、万全の策を練って、その通りに実行できるような行動力を、ぼくは持ち合わせていないので。自分で言うのもつらいですけど、優柔不断を絵に描いて黒く縁取りしたような人間ですよ。
 今回だって、先に策を練ったわけじゃありません。どうしようかと迷った末に、どうにか決心して文学部の窓口に聞きに行ったら、もう期限が過ぎているから教えられないと断られただけです。優柔不断の極致ですよ。
 仕方なく、後から辻褄の合ういいわけを作り出したというわけです。叔母さんたちには期限がすぎていて取りあってもらえなかったと正直に言えなくて、不合格だったことにしてしまいました。何とも情けない話です」
「いいえ、素敵よ。その情けなさ、とっても素敵だと思うわ。それに、とっても文学部的。野上さんの入部の動機にぴったりだもの。やっぱり文学部生はこうでなくちゃ」
「どうして人の不幸を素敵というのかね? どうもおまえの気持ちはよくわからない」
「それは、おじいちゃんが野上さんの気持ちを汲み取っていないからよ。野上さんは情け
ないとは言ったけれど、法学部に入れなかったことを惜しんでいるわけじゃないわ。文学部に残れたことを喜んでいるのよ」
「それは、そうだと私も想像できるが、それでも、少しくらいは、法学部に行って、ある程度の社会的地位と経済的安定を手に入れたい気持ちはあったんだろう?」
「いいえ、すみませんが、ありませんでした。これまでの経緯から分かっていただけると思いますが、ぼくには、人と闘って何かを勝ち取るという気持ちが、もはや持てなくなっています。
 それより、悲しみに沈んだ人間、やり場のない怒りを抱えた人間、苦しみに押しひしがれた人間、理不尽な生きづらさに振り回されている人間などなど、どちらかと言うと、責められるべき理由なく困っている人間の側に立ちたい。そうすることで、現在や未来において、自分と同じ悲しみを持つ人たち(その人たちをぼくは「かつての自分」と呼んでいます)の心の負荷を、文学によって、少しでも軽減できたらと考えています。
 あ、それから、その中にはもちろん、今度のぼくのような「情けない人間」も含まれています。だから、ぼくの最終目標は、文学というものを通じて、自分で「かつての自分」を救い出すことなのだと思っています。
 お恥ずかしい話ですが、期限切れのために文学部に残れたとき、ぼくは、心の底から、神様に感謝しました。どの神様かはわかりません、おそらく偶然と言い換えるべきかもしれませんけど、その偶然に手を合わせました」

 その後、しばらく古川医師と里都子さんは黙ったままだった。おれは、あたりにくつろいだ沈黙がただようのを感じた。
 その沈黙を破るように、古川医師が、グラスに残った最後のロゼを一息に飲み終えてから言った。

「どうだい、里都子、今夜は私の勝ちじゃないかね?」
「わたし、おじいちゃんと、勝負なんかしてませんけど」
「どうだかな。まあ、いいだろう。いずれにしろ、今夜は珍しく、招待した学生さんと、それも文学部の学生さんと、何のトラブルもなく、会食を終えることができた。 
しかも、いつも翌日、何一つ思い出せないくせに、すでに今夜から何一つ忘れられそうにないから妙だ。
「妙だ」と言うのはもちろんほめ言葉でね。今夜の君の、いや君では失礼だな、野上くんの話に、初めて私は文学部志望の納得の行く答えを見出すことができた。これまでの野上くんの毎日は、さぞ大変だったことだろう。しかも、まだ問題の解決を見ていないうちから、私が無責任な質問をするものだから、いかに野上くんの気分を害したか、いかにわたしが無神経だったか、今さらながらよくわかる。
 しかし、日々の重さから抜け出そうとする足掻きゆえに、文学に一筋の光明を見出すことができたという、野上くんの文学部志望の経緯(いきさつ)には、深く納得が行くと同時に、深く頭を下げる。今夜の失礼をどうか許してくれたまえ」

 そう言って、古川医師は、ロゼでふらふらする頭を下げた。ところが、勢い余って頭はテーブルにぶつかり、ゴトンと大きな音を立てた。
 おれはびっくりして医師を支えようと立ち上がったが、医師の姿に笑いがこらえられず、急いで両手で口をふさぎ、里都子さんを見た。里都子さんも、座席で口を押さえて、くつくつ笑っている。不謹慎だが、おれは、口を押さえた里津子さんの片手の格好よさに見とれてしまった。
 古川医師は、額を両手で押さえて、苦笑いしながら立ち上がった。

「今まで、文学部を批判して来た天罰かな、これは? だが、この痛さには代えられない楽しい晩だったよ。今夜は二人とも出席してくれてありがとう。またこんな食事の時間を過ごせるといいのだがね。うむ、そのためにも、この痛みは忘れないようにしよう」
 とまあ、こういうしだいで食事会は散会となった」
「なんだ、大乱闘はなかったのか」堀井が眠い目をこすりながら、残念そうにつぶやく。

「でも、どうして世が更けるにつれて話題も深刻になるのかな。露野の話だけでも驚いたのに。露野の後にも驚く話が待っていたとは」大山が、ここでさらに深刻な表情をする。

「今までは、おれ自身のことばかりだったが、これからがいよいよ真正深刻な失恋話になる。だから夜はますます更けて行くだろうね」と、わたしがダメ押しをする。

「でも、丑三つ時にはならないんだろう?」と堀井が身を震わす。

「なかなか」とわたしが含みのある表現をする。

「が、しかし、ここまでの説明に時間がかかりすぎたことは認めるよ。これからは少し時間を巻いて話すことに努めるから、引き続いてのご清聴をお願いする。では、二つ目のエピソードに移ろう」


〈2〉

「ここから一月は、何事もなく過ぎた。里都子さんも古川医師も、まるで掻き消されたようにおれの前からいなくなった。もちろんおれの部屋の二十メートルほど先には、二人の住む洋館が立っている、ところが、ひっそりとして人の住む気配も、生活する音も何一つ伝わってこない。洋館は、人の出入りもなく、ただひとり不気味に静まり返っている。
ただ、ときどき夜遅く見かける、ぼうっとした窓の薄明かりに、人が生活を営んでいるのが辛うじて知られるばかりだった。