京都七景【第十七章】前編
こちらも、いよいよ大学が再開となり、毎朝八時半には出かけなければならず、講義を聴き家庭教師のアルバイトを済ませれば、もはや疲労困憊して帰って寝る日々が続く。いちいち洋館の生活を気にするわけには行かない。それに、おれに、そんなことをする所以もない。はずだが、それでも、会食のときに、古川医師と里都子さんとの微妙な(微妙でもないか)感情的対立を認めて、なぜかおれは気が気でなくなった。よからぬことが起きなければいいが。そんなことが想像された。
しかし、「去るものは日々に疎し」と言おうか。二十メートルほど離れただけで、おれは、うかつにも自分の生活に没頭してしまい、里都子さんと出会った逢う魔が時のことも、個性的な古川医師との会食も、自分がした身の上話も、いつしか夢のように、思い出さなくなっていた。
そんな十一月初旬の、冷えて清々しい大気に秋枯れの匂いただよう、ある晴れた木曜日の午後三時過ぎのことだった。大学から帰ると、どういうわけか、いつになく部屋の中がひどく明るく、妙に蒸し暑い。特に西窓に強い光がさし、目が眩むほどになっている。
これはまずい。もしや、西隣の家が出火して、その炎と熱が西窓に反射しているのではないか。秋枯れの匂いと思ったものも、実は火事で家が焼けている匂いではなかったか。そう思うと、矢も盾もたまらず、西窓を開けようと窓の枠木に手を延ばした。
いや、いけない。そんなことをしたら、逆に炎が吹き込み、大変なことになるかもしれない。ひとまず、フランス窓を出て、外側から西窓を見る方が賢明だ。そう考えるや、戸口を飛び出し、建物の角から恐る恐る西側一面に目を走らせた。
ところが、そこに見えたのは、西窓を燦々と照らす日差しに、枯れ葉が二、三枚、木の枝から舞い落ちる、静かな秋の日だまりである。
そんなばかな! おれは、すぐに部屋に戻って、西窓を見た。相変わらずの眩しい光と蒸し暑さだ。勇気を出して窓ガラスを開ける。やっぱり、さっきのままの日だまりである。
しかし、日差しは目が開けられないほどに眩しい。ここに至って、おれは、やっとあることに思い至った。
そうか、そういうことだったか。おれは杉谷先輩の入居三ヶ条の一つを思い出した。
「秋から冬にかけて、部屋の窓に西陽が直に当るので、その室内の暑さたるや夏以上に耐えがたくなる。そのため、午後二時過ぎから日没までは外出する必要がある」
なるほど、そういうわけね。ならば、自分も先輩に倣い、真如堂の物陰で読書としゃれ込もうではないか。歩いて五分圏内に真如堂という名所旧跡があって、しかも心穏やかに読書ができるとは、さすがに京都、懐が深い。(注:当時(今もか?)真如堂は人通りがまばらでした)
そうと決まると、外気の中で読書するという普通のことが、秋の真如堂の境内ではまるで特別なことのよう思えて、心が幼子(おさなご)のように浮き立った。おれは、読みかけの文庫本を三冊片手に持って、意気揚々と真如堂に向かった。
真如堂は、思えば不思議なところである。みんな感じているかもしれないが、京のほかの名高い神社仏閣にはない独特の開放感がある。おそらく、どこからでも人が自由に出入りできる、その融通性が理由だと思う。一例をあげれば、おれなど、三重塔の前から、何げなく、すぐ脇の墓地の間を抜けて行くと、いつしか黒谷の金戒光明寺の境内を歩いているのだから、びっくりしたこと、この上なかった。
すまん、本筋に戻そう。
おれは、気分よく真如堂の前に立った。総門をくぐり、本堂に向かう広くて傾斜の緩やかな階段を上って、三重塔そばの手濯ぎの水のところに立ち止まる。その向こうに、観光客用の椅子と四角いテーブルが四組くらいあって、この時期には、修学旅行の中高生が数人、ガイドブックを囲んで談笑する姿をよく見かける。この日も手前の一つのテーブルに中学生らしき四人の男女が集まっている。おれは空いたテーブルがあるかを確かめようと背伸びをした。
大丈夫、一つは塞がっているが、横のもう一つは誰も座っていない。よし、あそこに座ろう、と一歩踏み出したとき、不吉な既視感に襲われた。
塞がった方のテーブルには若い女性が一人座って本を読んでいる。それは構わない。問題は、その女性が白衣を来ていることだ。病院や研究所のある周辺なら、外で白衣を着た人に会うことも、稀にはあるかもしれない。しかし、京都の著名な観光スポットで、読書する白衣の女性に出会うことなど、おれには皆無の経験だ。
もしや、里都子さんじゃないだろうか? おれは、その不吉な問いに答えるべく、もう一度背伸びをして、その人影を見た。
まずい、あっちでもこっちを見ている。幸い、目は合わさなかったが、おれを認めた可能性は高い。なぜなら、おれを見て、女性がこちらへ少し向きを変えたからだ。
いけない、やっぱり里都子さんだ。おれは、気づかなかったように頭を低く下げながら、さりげなく手を洗う仕草をした。腕の時計が目に入る。ああ、やっぱりこういうことか。午後四時を指している。どうやら二度目の逢う魔が時に出くわしたらしい。
かかわらないこと。かかわらないこと。そんな念仏を心に唱えながら、何とか逃れる方策を考えた。このまま、すぐ引き返せば逆に怪しまれかねない。今時、手を洗う目的で境内に来るのは、その辺で遊び回っている子供たちくらいなものだろう。普通の観光客なら、手を清めた後は、本堂くらい拝んで帰るはずだ。おれは内心の忠告に従った。
参詣路に出て、本堂に上がる階段下でたたずみ、おそらくは阿弥陀如来像が安置されている仕切障子の向こうを時間をかけて拝んでから、さて何事もなかったように折り返して境内を出るつもりだった。
ところが、拝礼を終えて回れ右して振り向くやいなや、間髪入れずに里都子さんの右腕が上がった。どうやら最初から、おれに気づいて、いちいちの行動を目で追っていたらしい。おれと目が合うと、上がった手の指先が、おいで、おいでをする。
おれは、すがるつもりで近くに人を求めた。もちろん自分が呼ばれていないふりをして逃げ切るためである。だが、悪いときには悪いことが重なるものだ。近くに誰一人いない。
仕方がない。おれは里都子さんと関わる覚悟をした。
「こんにちは。久しぶりですね」
「ええ、本当に」
「でも、どうしたんですか? こんな時間に、こんなところで」
「ええ、時間つぶしの読書」
「誰かと待ち合わせですか?」
「そうなの、野上さんがそろそろ来る頃じゃないかと、お待ちしてたのよ」里津子さんの口調は何だかいたずらっぽかった。
おれは、少しぎょっとさせられた。いったいこの人はどういう人なのか。
「ええ? あの、失礼ですけど、占いでもするんですか?」
「どうして?」
「だって、おれが今日ここに来るのを予想してたんでしょう?」
「ええ、もちろん。でも、占いじゃないの。私だって理系の端くれでしょう? 因果関係のはっきりしないものは信じないわ。信じるのは純然たる経験科学的推理。どう、聞きたくない?」
「そりゃまあ、聞いてもいいですけど」
「歯切れが悪いのね? 優柔不断は女の子に嫌われるわよ。聞くの、聞かないの? はっきりしなさい」
作品名:京都七景【第十七章】前編 作家名:折口学