京都七景【第十七章】前編
「いえ、ぼくは無我夢中だったので、苦労のことは何も覚えていません。育ててくれた叔母たちが、その苦労を一つひとつ引き受けてくれたのだろうと今は想像できますけど」
「叔母さんたちは、君の文学部受験に賛成してくれたのかね?」
「おじいちゃん! どうして、そういう嫌味な質問をするのよ? 今言った反省が全然生きていないじゃない!」平静を取り戻しつつあった里都子さんの整った顔立ちが、再び大きく歪み始めた。
ここから、大方の期待通り、いよいよ第二回目の危機的瞬間に入ることになる。その前に、ちょっと、一言つけ加えさせてもらってもいいかな?
おれは、里都子さんの予想に反して、古川医師のこの質問に気分を害したりはしなかった。なぜなら、毎日、叔母たちから、それ以上に辛辣な「文学部に入って何の役に立つのか?」という質問に苦しめられていたからだ。
何しろ、文学という言葉を、知る機会や必要のほぼ無い農家に生まれ、『家の光』という農業雑誌を回覧で読む以外に、本一冊ない生活を送って来た人たちに、文学の有用性を理解してもらうのは、ひどく困難、というより、残念ながら、もはや無理なことだった。
叔母たちは、裁判における難しい手続きや苦い経験のせいで、おれが法律を学ぶことを願っていた。それを知ると、おれも叔母たちと妥協しないわけには行かなくなった。このことを踏まえた上で、続きを聞いて欲しいんだ。では、再開するよ。
「いいえ。ご懸念の通り、賛成してはくれませんでした。ただ、ぼくの気持ちを察してなのか、反対もしませんでした。でも結局、この家の今後のために、どうか法律を学んでほしいと頭を下げられてしまいました。これまでの経緯を考えれば、受け入れないわけには行きません。それに、法律の勉強自体、嫌いというわけでもなかったので、法律を専門にして、余暇に好きな本が読めればいいやくらいに軽く考え、ひとまず法学部を志願することにしました」
「でも、結果として、君は今、文学部生になっている。やはり、いろいろ紆余曲折があったのだろうね?」
「いえ、それがそうでもなかったのが、逆に不思議でした。一旦法学部に決めると、何だかその気になってしまい、文学部のことは自然、棚上げにして、受験勉強に取り組みました。
ところが最後の模試(=模擬試験)でしくじってしまい、法学部の合格可能性に赤信号が灯りました。このまま受けるべきか、変更すべきか、かなり迷いましたが、一浪を許してもらった以上、今度こそ必ず合格しなければならぬという切羽詰まった思いから、可能性の高い文学部への変更を、こんなふうに弁明して、叔母たちに認めてもらいました。
今回の模試で、法学部の合格可能性が下がってしまった。一回の模試で合否が決まるとは思わないが、もし、入学試験に不合格となれば、志望する大学に入学するチャンスは二度となくなってしまう。それだけは避けたい。だから、こんな次善の策を考えたので了承してほしい。
ここ七、八年、志望大学の文系学部合格最低点は、文学部より法学部の方が常に高くなっていて、たぶん来年もそれが続くだろうと、信頼のある受験雑誌が予想している。それゆえ、安全策として、より合格可能性の高い、文学部を受験することに変更したい。
これは、もちろん、法学部をあきらめたということではない。ある条件さえクリアすれば、文学部に合格したあと、一回生の前期にのみ、法学部に転部するという道が残されているからだ。その条件とは、自分の入学試験の総得点が法学部の合格最低点を上回っていること。
もし、そうなれば、手続きを取って法学部へ進む。上回っていなければ、転部はできない。それはつまり、法学部を受験しても結果は同じだったという意味だから、そのまま文学部に残るしかない。
初めから文学部に不合格なら、法学部にも合格するはずはないから、その時は潔く諦め、合格した他大学に入学する、と。
「そうか、それで、今、文学部生というわけか。では、合格最低点は上回れなかったのだね?」
「いえ、それが、そうとも言いきれないから困るんです。実は自分の得点を聞く前に、ひとまず、文学部と法学部双方の講義に出てから考えてはどうか、と思いました。それが裏目に出たのです。
講義はどちらも新鮮で興味深いものでした。ところが、前々から一度は学びたいと思っていたギリシア語入門の講座で、ギリシア悲劇の講義を聞くうち、自分が求めているのは文学部の講義だということが、いよいよはっきりし出したのです。
なぜ、運命がこれほどにも理不尽なのか。なぜ人間はこれほどにも愚かなのか。人間を人間らしくするものは何か。などという問いが次々に湧いて、答えがいよいよ知りたくなりました。そのとき、初めてぼくは、自分が人間の倫理について、強く引かれていることに気づきました。
そうなると、これはもう文学部に居残って、文学科か哲学科に行くしかない。そう思い至ったとき、心の中に良からぬ考えが生まれました。
もうお判りかと思いますけど、それは、法学部の最低点には届かなかったと嘘をつくことでした。
なら、最低点に届いていたんじゃないかと、お思いかもしれませんが、そこは、ぼく独特の屈折した自尊心のなせる技で、完全な嘘はつけないというか、いや、つきたくないのです。
実は、今回の試験では、合格できそうだという、それなりに納得のいく手応えがありました。その手応えを思うと、あるいは法学部の最低点を越えたかもしれないという恐怖が、ぼくを襲いました、大げさに聞こえるかもしれませんが、本当です。
文学部に行けなくなったらどうしよう? 今から思えば、情けない話ですが、そのときは真実、身体極まってしまいました。うつうつとして不安な日々が続きました。
しかし《窮すれば通ず》という諺にもあるように、人は追い込まれると何かしら対応策を考えつくものですね。こんな策が浮かびました。
ただし、毎日の葛藤と逡巡の中で、ようやくでき上がったものなので、実際には、言うに言われぬ複雑な心情もありますけれど、今は、割愛して話します。
こういう策です。事実を確かめるから、自分に都合のいいことと悪いことがはっきりする。はっきりすれば自分は事実を揺るがせにすることができないし、またしない性格でもある。ゆえに、合格なら、無理してでもきっと法学部に進むだろう。
ならば、事実そのものを確かめなければいいのではないか。そうすれば、事実は確認されていないのだから、ぼくが、不合格だと言っても、嘘とは言えないし、逆に本当かもしれない。またそのことを確かめられる人もいない。よって文学部に居残れる。
それにしても言葉は、ぼくの実際の心の移り変わりまでは表現できないものですね。これじゃ、ぼくは極悪人みたいじゃないですか。自分が嫌になるな」
「法学部に進まなくて、正解だったのかも知れないわ」
「どうしてです?」
「だって、これ、悪徳弁護士の思考回路と同じでしょう? 人の悲しみに寄り添えるやり方とは、とても思えないもの」
「いや、君こそ法学部へ進むべきだったかも知れんよ。さすれば、弁護士として産を為したこと疑いなし!」
「また、そんな身も蓋もないことを言って。だから、おじいちゃんは嫌われるのよ」
作品名:京都七景【第十七章】前編 作家名:折口学