京都七景【第十七章】前編
ぼくは、帰るとすぐ、母屋の向かいにある、比較的大きな物置小屋の二階に籠もって、漫画雑誌を読んだり絵を描いて暗くなるまで過ごしました。この時ほど、あの耳をふさぎたくなる喧騒と、ソワソワと身の置き場のない気持ちを忘れ、たとえ束の間とはいえ、自分の悲しみから抜け出られたことはありません。
ところが、ぼくがそうしていることは叔母たちの心配の種になりました。宿題もせずに、漫画を読んで絵ばかり描いていたら、この子は馬鹿になる。いや、もうそうなっているかもしれない。
確かに、その頃のぼくの学業成績は惨憺たるもので、叔母たちがそう思うのも当然でした。しかし、農作業に大半の時間を割き、家事をこなして食事を終え、その後に言い争いが延々と続く毎日では、ぼくの学習を気づかう時間など、ほとんどあるわけがありません。しかも、その争いの場に、ぼくも毎回立ち会うんですから。
そこで叔母たちは、あることを思いつきました。新聞でたまたま目にした記事に、読書の習慣をつけることこそ小学生の学力向上には最適だという文章と必読書リストが載っていました。叔母たちは、それを見つけて「ようし、これなら、家(うち)でもできる」とよろこびました。ことに、年上の叔母には、幼い頃、家の農繁期の手伝いのため、まともに小学校に通えた記憶がなく、皆が教室で本を読んでいる姿を横目に見ながら帰らなければならないのが悲しくてつらくて親をうらんだ、という経験がありました。それほど叔母は勉強をしたかったようです。だから、その記事を見て、「この子をこのまましておいてはいけない。自分の二の舞とならぬよう、この子にはぜひ学問を身につけさせてやらなければいけない」という切羽詰まった思いが湧き上がりました。
その思いが通じたのでしょうか。ぼくは、意外と素直に、叔母の話に従うことができました。おそらく、ぼくも自然と本が読みたくなる時期に差しかかっていたようです。早速、漫画雑誌は物置に封印し、読書に向かうことにしました。
さて、本を読み始めてみると、果たして、ぼくは本の世界に夢中になりました。まるで砂地に水が染み込むように、本の文章は、ぼくの心を次々に潤して、これまで知らなかったいくつもの感情を呼び覚まし、自分では到底できない数々の貴重な経験の記述で、ぼくの内的経験を豊かにしてくれました。今では、読書のない生活を考えるのは難しいほどです。ですから、大まかに結論づければ、ぼくも読書が好きで文学部を選んだ一人だと言えます。
ただし、その結論に納まりきれない理由も一つ、ぼくは持っています。とはいえ、おそらく、口には出さなくても、そう言われてみれば、「そうそう、自分もそう思う」と賛同してくれる人は多いのではないかな。それを一言だけつけ加えて、質問へのぼくの答えとしますね。
最初の頃、ぼくは、本を消極的理由だけで読んでいました。それは、嫌々読まされていたという意味ではありません。ただ悲しい現実から逃れるために読んでいた、ということです。ですから、名作といわれる冒険物語や推理小説を次々に借りて来ては、時間が経つのも忘れて読み耽ったものでした。
ところが、いつの頃からか、そういう本だけでなく、別の本が読みたくなりました。しかも、それが、楽しい本というのではなく、人の苦しみや悲しみの書かれている本に、不思議と心惹かれるのです。これは全くおかしなことでした。現実の悲しみから逃れるために、わざわざ悲しい本を読みたい気持ちになるでしょうか?
でも、なるんです。自分と同じ悲しみに苦しんでいる人は他にもいないのだろうか、という気持ちが湧くんですよ。つまり、自分の悲しみがどれほどの悲しみなのか、ほかの人の悲しみと比較対照して自分の悲しみの程度を確かめたくなるんですね。
そして、一度、その方面の名作を読んでみると、世の中は悲しみや苦しみに溢れかえっていて、自分の悲しみなど、まだまだましな方ではないかという気さえして来ました。そうなると、本の中に、どうしてこんなに苦しみや悲しみが溢れているのかが気になって来ます。それから、どうして自分の悲しみや苦しみについて書く人がこんなにたくさんいるのか、楽しい話だけ書くわけにはいかないのか、という疑問も出て来る。
ぼくは、本を読みながら、自分の読書に対する態度が次第に変化して行くのを感じました。今、その変化の過程を順にたどれば、その落ち着く先を、納得していただけるんじゃないでしょうか。
こんな順序です。
〈その一〉ぼくは、悲しみから逃れるために、楽しい物語の世界に逃避する。
〈その二〉そのうち、ただ楽しい物語に逃避しているだけでは、現実の悲しみを解決する
ことはできないという自覚が、次第に芽生えてくる。
〈その三〉ならば、他者の悲しみを書いた本を読んで、その悲しみの実態を知り、自分
の悲しみと比べてみようと思いつく。
〈その四〉さて他者の悲しみを読みはじめると、自分だけが悲しいわけじゃないことに気
づき、救われる思いになる。
〈その五〉でも、他者は、なぜわざわざ自分の悲しみを書くのかとの疑問が生じる。
〈その六〉幾つも読んでいくうちに、他者がわざわざ自分の悲しみを書くのは、たとえその悲しみから直接逃れることはできないにせよ、言葉という目に見える形にして、心の外に出すことで、心の負担を軽くし、精神の安定を図っているのではないかと、うすうす感づき始める。
〈その七〉では、どうして、書くと悲しみを軽減できるのだろうかとの疑問が生じる。
〈その八〉ぼくは、自分の経験を振り返る。他者の書いた悲しみを読んだだけで、自分は救われたと感じたではないか。それと同じことが、いやそれ以上の救いが、書いている本人に起きているのではないか。
〈その九〉なぜ、そう思うのか? それが言葉の働きだと経験的に感じてきたからである。
言葉は、心の中の未整理のものを整理して、それに表現や秩序を与えることができる。
さらに言葉は、自分一人の内面を語るという特殊性を持ちながら、同時に、その言葉を読む人に、次から次に伝播して行くという社会流通性も備えているではないか。
〈その十〉つまり、人は自分の悲しみを書くことによって、自分やほかの少数(場合によ
っては多数)の読者の心の負担を軽減することができるではないか。これは人が一生かけ
ても惜しくない仕事ではないだろうか。
と、まあそんな次第で、ぼくは言葉に関わる学部、文学部を選んだわけです。理由が長く
てごめんなさい。でも、これが、今のぼくの、偽りない気持ちなんです」
「ああ、君には本当に申しわけないことをした。心に大変な葛藤があって口に出すのも苦しかろうに、こんな私の不用意な質問に応じて、よくぞ話してくださった。君の心の中に無神経にずかずかと踏み込んでしまったことに心からお詫びする。許してくれたまえ。
でも、そのおかげで、私には気づいたことがある。
それは、君のこれまでの経験に私が口を挟める余地など何一つないということだ。幼い君が荷なった人生の重みを前に、さしたる経験もない七十歳を越した私に、君を労る言葉など軽々にかけられるわけがない。よく君がここまで育ったものだと、ただひたすら感心する。大変だったろうね?」
作品名:京都七景【第十七章】前編 作家名:折口学