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京都七景【第十七章】前編

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「うむ。わかった。私はあくまで君の意思を尊重する。だから、話したくないことは、無理に話すことはないし、話さないからといって、私が今後君に冷たく接するような人間でないことも信用してもらいたい。その上で、君の意思で、私に何か参考になるような話をしてもらえるなら、これ以上ありがたいことはない。近頃、娘は私に愛想を尽かして怒るばかりで、若者の意見を教えてくれないものだから、こんな機会が持てるのは新鮮でうれしいよ。もちろん、失礼な質問をしないように固く自分を戒めているつもりだ」
「お気遣い、感謝します。では、質問に答えますね」

 おれは、さっきから、これ以上深刻な事態にならぬよう、いつ話に割って入ろうかとチャンスをうかがっているらしい里都子さんに顔を向け、大丈夫だからと片手で合図して、話し始めた。

「自分で言うのもなんですが、ぼくが文学部を選んだ理由は、家庭環境に大きく左右されていると思うんです。でも、両親が独断で決めたとか、逆に、両親の意見にぼくが反発したからとか、そういうのじゃありません。
 ぼくの実家は戦前から代々農業をやって来ました。それも、どちらかといえば小作農に近かった。それが、戦後の農地改革で農地が比較的安く手に入って、ぼくの祖父もこれで、やっと大手をふって自作農になれると泣いてよろこんだそうです。
 ところが、ぼくが生まれて一年過ぎたある年、祖父と父が相次いで亡くなりました。後に残されたのは、ぼく以外女性ばかりでした。この時はさすがに誰もが、これからどうしたらいいか見当もつかず、お互いまるで言葉を失ったように黙々と毎日を過ごしたそうです。
 ですが、そのままですませておくことはできません。どうにか生計を立てて生きて行かなければならない。しかも解決すべき問題が山のように湧いてくるから、大人たちの相談は紛糾してなかなかまとまりません。それでも、野上の家を無くしてはいけないという意見が勝って、結果的に遺産は長男のぼくが全てを相続し、それ以外の家族で農業を続けることになりました。これが後々災いの種となります。
 母がこの結論に内心では不満だったのです。父がこれからもまだ生きてくれて(亡くなったのは三十代後半です)、ぼくがある程度成長してさえいれば、あるいは母もよろこんで賛同したかもしれません。
 しかし、今から思えば、母はどうも農業に向いていない人のようでした。頼りとする父が亡くなった上に、祖母や父の二人の妹と生活を共にしながら、子育てと農業を延々と続けて行くなど、到底我慢できないことでした。母は外で働きたい人でした。
 ここでちょっとひと言、母を弁護しておくと、この条件に耐えられる女性は、母に限らず、普通なかなかいないのではないでしょうか。だからそのことを責める気はありません。
それでも、二人が相次いで亡くなった当座は、母もなんとか頑張ってはみたようです。しかし、数年が経つうちに、とうとう我慢できなくなり、実家へ戻ってしまいました。その時は、なんとか説得に応じて戻ってはきたものの、その後、何かにつけ、すぐ実家に戻ることを繰り返すようになりました。
 母の処し方に困った双方の家では、いろいろ協議した結果、母が外で働く代わりに野上の家に戻ること、ぼくの世話は父の二人の妹(ぼくの叔母)に委せることで折り合いがつきました。
 しかし、母は、ぼくが二人の叔母に養育されるのをよろこばず、数年して、またまた実家に戻り、半年の間、音信も不通となりました。その後、母から野上の家に、ぼくの養育の件で家庭裁判所に裁判を起こした旨の手紙が届き、野上の家は大騒ぎになりました。
 母の主張はこうでした。自分は実家に帰って生活をする、ついては、息子(ぼく)の親権は自分にあるはずだから、すぐに息子を自分に返してもらいたい。また、(ここが一番の問題です)野上家の遺産は息子が相続したのだから、遺産は息子が成人するまで自分が後見人として管理する、というような内容でした。
 野上家の家族は、これに真っ向から反対しました。今、相続人と財産が全部母の実家に行ってしまったら、野上家を継ぐ者も、継ぐ財産もなくなってしまうではないか。それでは、あれほど苦しんで家族一人ひとりが財産放棄をした意味がない。それに母は、息子を三ヶ月なり半年なり何度も放り出しては実家に戻り、都合よくこちらに任せたきりで、そのまま連絡するでもなく、心配して様子を問い合わせて来たことさえなかったではないか。そんな母親の資格もない人間に、息子も財産も渡すわけには行かない、こちらはあくまでも闘う覚悟だ、とこう反論しました。
 つまり、私を真ん中にして、親権と財産についての綱の引き合いが始まりました。それは、ぼくがちょうど小学校に通い出した頃のことです。それ以前も同じ家の中で、これに似た口喧嘩が日々絶えませんでしたが。
 もちろんぼくも傍観者ではいられません。気がついた時には、叔母たちから「愚かな母親に向かってしっかり怒りなさい。そうしないと、この家から連れて行かれてしまうよ」と叱られ、母からは、「お前は親不孝者だ。叔母さんたちにだまされている。母親の言うことをちゃんと聞きなさい」とたしなめられました。
 ぼくには、どちらが正しいのか全くわかりませんでした。また、何を争っているのか少しも見当がつきません。それなのに、野上家のただ後継(あとつぎ)だという理由だけで、母親に向かって、自分でもよくわからない怒りを、無理やり露わにしなければならない立場に立たされてしまいました。
 しかも、運の悪いことに、争いは私が高校二年生になるまでの十数年間続きました。ぼくはその間も、自分はどうしてこんな家に生まれたのだろうか、どうして母も家族も互いにこんな悲しいことをし続けるのだろうかと、いつも、そればかり考えて暮らしました。
 そうするうちに、こんなことをしている自分までが悲しくなって来ました。そうして、あるとき、ため息まじりに、こんな言葉が口をついて出たのです。

「人間はどうしてこんなに悲しいんだろう」

 今にしてみれば、この言葉は、ぼくが人生を苦行と感じた最初の表現だったと思います。でも、その言葉を受け入れ、人生を悲しいまま過ごすのは、自分には怖くてどうしてもできそうにありません。ぼくは、なんとかこの悲しみから逃れる方法はないかと思いました
……
 そうか、話していたら、今、気がつきましたよ。小学生の頃、知らず知らずにやっていた、それらしき避難方法を。うかつだったなあ、今夜になって、その意味がわかるなんて。ああ、自分だけ納得していて、ごめんなさい。実はこういうことなんです。
 家族がもめるのは、たいてい、母が仕事から帰って来た夕方からでした。ほかの家族も皆、畑に出ていて、日暮れまでは帰って来ません。だから、ぼくは学校から帰って日が暮れるまで、ずっと一人でいられるわけです。この時間がどれほど貴重だったことか。