京都七景【第十七章】前編
それって、本当? 本当にそうなの? わたしはそうは思わない。なるほど、お金があれば解決できることはたくさんあるでしょう。だから、それで満足できる人はそれでいいわ。
でも、わたしは違う。例えば、本当の愛情や真心を持つとか、正義や約束を守るとか、人格を磨くとか、真実を追求するとか、そういう価値が、本当にお金だけで実現できるのかしら? もしできると考えているなら、そんなのは傲慢だわ。傲慢で悪けりゃ、まやかしよ。人間として偏った考え方だと思う。
ああ、だめだ。また、怒りにまかせて、われを忘れてしまった。恥ずべきだわ。もう、やめましょう。話を元に戻すわね。
実は祖父も同じ大学の医学部出身なのよ。病院の建物を下宿にするとき、これも失礼な話なんだけれど、同学の学生だけに下宿を貸すことにしたの。しかも、文学部の学生は除いてね。なんでそんなことをしたかについては、さっき説明したような事情があるからなんだけれど、それだけじゃない、もっと深い理由があるの。わたしは察しているけれど、ここから先は、わが家のプライバシーになるから説明は遠慮させてもらうわね。ま、隠しておいても、普段の様子を見ていれば、いずれあなたにもわかるでしょうけれど。
それじゃ、最後に一つだけ、祖父のことで、あなたに忠告させてもらうわね。祖父は新しい下宿人を迎えると、最初に一度だけ、行きつけのフレンチレストランに招待して、会食を楽しむ習慣があるの。どうやら、新しく入った人の品定めをしているらしいわ。失礼な話でしょう? もちろん、気が進まなければ、断ることはできるんだけれど、何しろ偏屈なところのある人だから、断ると、そのあと何かと冷たい態度に出るの。
まるで、だだっ子みたいでしょう? 職業柄、自分の意見が通らないと相手が悪いと思い込むんだから。しかも、必ずわたしにも出るように声をかけるから困るわけ。まあ、初めのうちは祖父孝行と思って我慢して出ていたのだけれど、その目的に薄々気がついてからは、絶対に出ないようにしているの。
で、ここからがわたしの忠告。今後も続けてこの下宿で暮らそうとするなら、祖父の申し出は断らないほうがいいわ。祖父は、口は悪いけれど口数が少ないから、話し相手が、はいはい聞き流して、美味しいワインでも注ぎ続けていれば、いつの間にか言ったことを忘れて、上機嫌になってしまうの。ま、他愛ないというか、しょうもないというか。
それで、あなたは食事代を一回浮かせることができるし、なかなか手のこんだフレンチ懐石に出会えるチャンスでもあるから、お得ではあるかもね。
ただし、申しわけないけれど、文学部のあなたにはおそらく四分六で声がかからないのじゃないかと思うの。そのときは、ごめんなさいね。それじゃ、そろそろお暇するわ」
彼女は、そう言ってドアから離れて行きかけた。おれは、急いで気になっている質問をした。
「あなたもお医者さんですか?」
「いいえ、違いますけど」
「でも、白衣を着てますよね?」
彼女は、ワインレッドのワンピースに白衣を引っかけていた。
「ああ、これ? これは医者の白衣じゃなくて、実験着よ」
「今、何か実験中ですか?」
「いいえ、それも違うわね。今は大学から帰ってきたところ」
「その格好で、ですか?」
「ええ、そうだけど、わたし、あなたと同じ大学の薬学部なの。四回生。確かに今日、実験はしたけれど、着替えるのが面倒で、いつもそのまま帰ってくるの」
おれは、彼女の答えに納得もし、驚きもした。今時実験の白衣を着たまま帰ってくる薬学部の学生がいるだろうか。白衣に劇薬がついていたりしないだろうか。
そんな心配をよそに
「じゃ、帰るわね。また、いつか会いましょう」彼女は、そう言うと去って行った。
それから、しばらくは彼女を見かけなかった。その間に、彼女の祖父は、驚いたことに(と言っていいだろう)、おれを会食に誘ってくれた。おれは、彼女からその申し出を聞いて、喜んで参加させてもらうことにした」
「で、フレンチはどうだった? うまかったかい?」堀井がストレートに聞いてくる。
「堀井くん、その質問はいつか別の機会にしよう。ここはまず、なぜ会食に招いてもらえたのか、その事情が知りたいものだな」さすがに大山大人、する質問が本筋を外さない。
「じゃ、話はまだまだ長くかかりそうだから、会食の件は簡単にかいつまんで報告することにするよ。要点だけを言おう。
会食に現れた彼女の祖父は、そのとき会うのが二度目だったが、よくよく観察すると、なかなかのダンディだった。上背があってやせてはいるが、骨格はしっかりして、動作がきびきびとしている。頭髪は白く豊かで、心持ち短めに刈り整えており、顔は面長、金縁のメガネをかけ、趣味の良い褐色のスーツを着ている。感じは悪くないが、やり手の経営者タイプだなとおれは直感した
かなり緊張した面持ちで「今夜は、お招きいただき、本当にありがとうございます」と挨拶すると、彼は、「やあ、どうも」と言葉を返して、
「孫娘の里都子(りつこ)から、話は聞いてると思うが、さっそく始めようじゃないか。悪いけど、メニューはこっちで決めさせてもらうよ。たぶん満足してもらえると思う。それでいいかね? 何か食べられないものはあるかい?」
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「じゃ、注文しよう。きみ?」彼は片手を上げて、接客係を呼んだ。接客係はすぐやってきた。
「まあ、古川(こがわ)さま、いつも、ごひいきいただき、ありがとうございます。今夜は何にいたしましょうか?」
「うん、このコース料理を三人前たのむ。それから、ワインは、いつものロゼを一本」
「はい、かしこまりました。少々お待ちください」
なぜ三人前なのか、おれは不思議に思って質問をした。すると次のような答えが返ってきた。
「うむ、もともと君とは二人きりで会うつもりだったんだ。ところが、どういう風の吹き回しか、里都子が今回は自分も参加させてほしいと言う。このところずっと断って来たのに、どうして今回だけ、出席したいのか、娘の心境の変化に驚いて、その理由をたずねてみた。
ただし断っておくけれど、君に面と向かって、わが家の会話の中身を暴露するのは、ちと、配慮が足らないかもしれない。でも、君も関係することだし、私は思ったことを率直に言わないと気が済まない性格だから、たとえ君の耳に少し聞こえが悪くなるにしても、里都子の話を我慢して聞いておいてほしいんだ。よろしくお願いする」そう言って、彼女の祖父は軽く頭を下げた。
「まとめると、こんな内容だったか。
娘が言うには、先日、偶然、新しく入居した野上さんと話す折りがあった。そのとき、その前に住んでいた杉谷さんと勘違いして、後輩の野上さんに向かって、杉谷さんの女性に対する無責任な行動や態度をあれこれ責め立ててしまった。まさか下宿人が入れ替わっているとは予想もしていなかったから、ひどい無礼を働き、大変申しわけなかったと深く反省しているそうだ。
でも、野上さん(つまり君だな)は、内心、嫌な思いはしていたろうけれども、顔には出さず、自分の話を最後まで丁寧に聞いて応対してくれたので、ほっとしたのだと言う。
作品名:京都七景【第十七章】前編 作家名:折口学