京都七景【第十七章】前編
「うん、たしかに若い美女だった。でも、だから、やり過ごせなかったわけじゃない。不意を突かれて、やり過ごす暇がなかったんだ。それをこれから話そうと思っている。じゃ、続けるよ。
九月の最初の日曜日のことだった。大学の講義の開始は九月十五日からで、時間の余裕があるし、朝からの晴天で大気が清々しかったこともあって、フランス窓の両扉を半開にして部屋の換気をしていた。
もちろん先輩の忠告に従って、フランス窓には常時カーテンがつけてあるから、もし仮に外から声がかかっても居留守を使えるから大丈夫と油断していたのがいけなかった。確かに逢魔が時というものはあるものだ。
引っ越しの荷物を片付け、昼飯を食べ、腹ごなしのコーヒーを入れて、読みさしの本を読もうと、ちょっとソファーに座ったら、猛烈な睡魔が襲ってきた。おそらく、そのままソファに横になって眠ってしまったんだろう。
突然、ギギギーッというドアの開く音がして
「杉谷さん。いる?」という声がしたような気がした。ハッとしておれが頭をあげると、
「なんだ、いるんじゃないの。返事ぐらいしなさいよ」と、一歩中に入って来る姿が目に映った。逆光だから、影になって顔の表情はわからないが、声とシルエットで、女の人だということは分かった。おれは、うろたえた。
「す、す、すぎたに、さ、さんは、ひひひーっこしましたよ」おれが言えたのはこの一言だけだった。あとは喉がつかえて声が出ない。
「引っ越した? どこへ?」
おれは、冷たくなったコーヒーに手を伸ばして、一口ゴクリと飲んだ。すると、少し落ち着きが取り戻せたので、杉谷さんの事情を説明した。
「 ふーん、そうなの。あの男ならやりそうなことだわね。いつも利害得失を天秤にかけて、一番歩き易い道を選ぼうとするんだから。それがビジネスなら、いいでしょうけど、女にだって同じ態度なんだから。一途な気持ちを捧げる気なんてあるのかしら? いつも恋人の予備をキープしてるなんて、絶対に許せない。今回だって、きっとそうだわ。郷里に予備がいるに違いない。なんてやつ」そう言って、女はくるりと向きを代え、片側のドアをバタンと強く閉めて出て行った。おれはドアに映った黒い影が遠ざかるのを祈るように見送った。
ところが、影は、おれの視界から外れる前にまた戻ってきて、またドアを開けた。
「ところで、あなたって、どなた?」
この、予期しない質問に、おれはまたまた慌ててしまった。しどろもどろになりながら、この下宿に入ったいきさつを説明した。
「ふーん。あんな男にも後輩がいるんだ?」
「ええ、まあ、それなりには」と、受け応えてはみたものの、おれは、なぜ初対面の女に先輩の件で、こうまで責められなければならないのかと思うと、少し腹が立ってきた。
「あの失礼ですが、あなたこそ誰なんですか? 突然来て、初対面の人間にこんな質問をするなんて」
「あら、あなた、杉谷さんの後輩でしょ? なら、わたしのこと何か聞いていない?」
「いいえ、べつに。何も聞いてませんけど」もしここで先輩から聞いた話をそのまましたら、事態がさらに悪化するのは目に見えている。ここは知らない振りをして、あとで先輩に確かめるのが賢明と判断し、何も言わないことにした。
「そうなの? 本当に? それじゃ申しわけないことをしたわ。急に言いがかりをつけるような真似をして、ごめんなさい。杉谷さんのことで祖父から聞かされていたことがあって、いつか意見をしてやろうと様子を伺ってたのよ。そしたら、いつも締まっている窓の扉が空いているでしょう。ようし、今日こそは言ってやると覚悟して、勇んで来たんだけれど、もぬけの殻とは、返す返すも悔しいわね。でも、関係のないことにあなたを巻き込んで、迷惑をかけてしまったことは事実だから、本当に申しわけないことをしたわ。謝ります。許してくださいね。それから、こんな時に言うのも場違いですけれど、今後ともよろしく」
「あの、誤解が解けたのはうれしいんですけど、今後ともよろしくとは、いったいどういう意味ですか?」
「あっ、そうか。そこから話さないといけなかったわね。あの、挨拶が遅れましたけど、わたし、この医院、じゃなかった、この下宿の大家の娘、じゃなかった、孫娘なの。とくに経営や管理には関わっていないので、ふだんお会いすることはあまりないと思いますけど、今後ともよろしくお願いします。そういう意味です。ちなみに大家は、ほら、すぐ向かいにあるでしょう、あの古ぼけた二階建ての西洋館」
彼女の言う方に目をやると、なるほど、少し離れたところに、古くて木造ではあるが、どっしりとした、風格を感じさせる、西洋館が立っている。
あれが大家だったのか。おれは初めてその建物に気づくとともに、自分が何の防御もなく、すでに逢魔が時をやり過ごせなかったことを知って、おののいた。
「最後に、一つだけ質問してもいいかしら?」
「ええ、どうぞ」
「杉谷さんの後輩というなら、たぶん大学も同じでしょう?」
「ええ、同じです」
「やっぱり」
「やっぱりとは?」
「祖父が好きな大学なのよ」
「祖父が好きな大学?」
「そう、祖父が好きな大学。意味は、いずれ後でわかるから、心配はいらないわ。それで何学部? 先輩と同じ経済学部かしら? それとも医学部とか」
「いえ、文学部です」
「えっ、文学部なの? よく祖父が入居を許したわね。それで何学科?」
「フランス文学科ですけど、入居して大丈夫ですか? 何か不都合でもあるんでしょうか?」
彼女の繰り出す質問に答えるうち、おれは何だか自分が悪いことをしているような錯覚に襲われた。
「いいえ、文学部で不都合なことなんか全然ないわ。返って私は大好きだけれど。ただ、祖父はね、功利主義者なのよ。それも、卒業してすぐに利益の上がるものを学んでいないと、人としての価値が認められないほど、頑固な功利主義者なの、だから、悪口は言いたくないけど、手に負えないわけ。でも、仏文でよかったわ。英文科だったら絶対に許可してくれなかったでしょうから。
それでも、昔に比べれば、少し態度が軟化したのね。昔なら、文学部そのものを大学からなくせばいいと吠えていたもの。自分は医学部を出て、医師をやっていたから、治療をすれば人は救えるものと思っていた。今も頑なにそう信じていると思う。でも、世の中には医療だけでは救えない人がたくさんいる。そういうところには目が届かないのよ。例えば、そうね、医者は医療で自分の家族を救えるのかしら?」
「救えるんじゃないですか。致命的な病気でない限り、治療をすれば」
「いえ、そういう意味じゃないの。それは家族が病気のときに限る話よね。でも、価値観の違いで、家族が対立して、お互いが理解しあえずに困っているとき、必要なのは医師の治療じゃないわ。相手を思いやって、お互いの価値観を尊重する態度のはずよ。そういうことに医師の治療がほとんど無力だということを祖父はちっとも理解しようとしない。そういうときに言う祖父の決まり文句は、「最後は金が解決してくれる」なのよ。頭にくるわ。
作品名:京都七景【第十七章】前編 作家名:折口学