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京都七景【第十七章】前編

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【第十七章 真如堂の女 前編】
〈1〉
「ところで、これからする話は、露野の深夜訪問のときにもちょっと触れたかと思うが、おれが錦林小学校近くの下宿に来る、少し前のことになる。それで、話の発端が最初の下宿から次の真如堂の下宿に移ったことにあるので、どうしても先に、その経緯に触れておく必要がある。すまんがしばらく辛抱して聴いていてほしい。
 実は露野と同じで、おれも京都に来て最初に紹介された下宿に入ったんだ。ただし、理由は、ずいぶん違っていたけれどね。
 おれの場合、その下宿は、紹介された最寄り駅から、狭くて傾斜の緩い一本道を、山の方へ五分ほど上(のぼ)った裾野の中にあった。歩むにつれて、側溝から、澄んだ水のせせらぎがにぎやかな音を響かせてくる。ほほうと思って、あたりを見回すと、農家らしき庭先に陽がいっぱいに当たって、見る人のいない満開の桜がひとり静かに咲いている。前方の奥には山がゆったり穏やかにそびえている。それが比叡山だった。
 まるで自分の田舎にいるみたいな気がするじゃないか。しかも、ここが出町柳から叡山電車で十五分しか離れていない場所だなんて、にわかには信じられない。いったい、京都はどうなっているのか。おれは、そのことを相当不思議に思ったものの、一目でこの景色が気に入り、住むことに決めてしまった。
 ああ、いかん、いかん。幸福な思い出に浸っている場合じゃなかった。こんなことを思い返していたら、おれの恋愛事件を話すのがますますためらわれてしまう。話したくない感情が募る前に大急ぎで、話してしまおう。うむ、それ以外に方法はなさそうだ。よし、では始めるよ。
 おれの恋愛事件は、この時からほぼ一年半後、新しい下宿、つまり二つ目の下宿に移ったところから始まる。ちなみに露野が避難してきたのは三番目の下宿だな。
 最初の下宿は、環境はよかったものの、時間と交通費がかかるので、生活を始めて一年くらい経つと、大学に、およそ徒歩十五分圏内でいける下宿に移りたくなった。そうすれば、学食で一日三食を済ませることができるし、二回生の後半からは卒業論文の準備に、
大学図書館を空いた週日に自由に利用することもできる。そして、何より食費も交通費も節約できるから、浮いた費用は必要な書籍の購入に充てられる。
 そんなことを、二回生の夏休み前に、母校出身者の飲み会で話していると、高校時代に同じ部活動に入っていた、経済学部四回生の先輩が耳よりな話を聞かせてくれた。
 その先輩によると、自分は、もう××商事に就職が内定していて、授業も週に一度、卒論ゼミに参加するだけだから、郷里に戻って週一度だけ大学に出て来る方が金もかからないことに気づいた。ゆえに、この夏休み中に下宿を畳むつもりである。ついてはその後に入る学生を探しているので、どうだい、野上、おまえ入らないかとの誘いである。下宿は真如堂のすぐ近くだから、大学までゆっくり歩いても十五分あれば十分に間に合うという。
 ただし、了承すべき三つの難点がある。
 一つ、建物が、昭和初期に建造された、かなり大きな木造二階建て総合病院で、二十年ほど前に、何らかの事情で下宿用に改修したものだということ。
 一つ、全部で一五室あるが、目下入居可能なのは先輩の部屋のみであること。また真如堂も見えて、静かで快適であるが、かつて、診察室として使われていたこと。
 さらに庭に面した南側の壁に、一箇所、フランス窓があること(つまり窓が両開きのドアとなって外のポーチと床が地続きになっている。もちろんストッパーを降ろして鍵をかければちゃんと閉めておくことはできる)
 一つ、どういう地形か建物の並びかわからないが、秋から冬にかけて、部屋の窓に西陽が直に当るので、その室内の暑さたるや夏以上に耐えがたくなる。そのため、午後二時過ぎから日没までは外出する必要がある。先輩は、仕方なく、真如堂まで行って、三重塔の前に置いてある観光者用ベンチに座って、読書をして過ごしたそうだ。
 まあ、後から思うに、以上の三点は、それから起きたことを考えれば、どれほどのこともなかったけれど、普通では経験できない珍しい下宿であったがために、おれは不安を払拭するべく、事前の見学を許可してもらうことにした。
 結果はもちろん、建物には何の問題もなかった。ここで注意しておくけど、みんな、今おれが使った「には」には十分気をつけておいてくれ。後から意味がわかって来るだろうからね。
 部屋は、それどころか、間取りが広くて日当たりもよく、とても心地がよい。ベッドにソファに応接用テーブルまで備えつけで、一人で使うのが申しわけないくらいだった。
 ただし、ベッドは、ことによるとかつての診察台ではないかとの疑念が湧いた。早速先輩に確かめてみると、やはりその通りだった。ただし、余っていた未使用のもので、他に使い道もないから、備品として残したそうだ。
 おれはその言葉を信じて、大家さんとすぐに契約し、先輩の引っ越した後の八月末にその下宿に移った。こんな中途半端な時期にいい下宿が見つかったものだと、おれは自分の幸運に、内心ほくそ笑んだ。
 ところが先輩は別れ際にこんなことを言い残して去っていった。

「ここは、快適で便利な下宿だが、一つ忠告したいことがある。おそらく、これから言うことに野上が遭遇することはまずないと思うが、もし万が一、フランス窓の外から若い女の声がかかったら、それがどんな美女であろうと、返事をしないでやり過ごすことをお勧めする。まあ、野上に声はかからないだろうと思うけどな。一応注意だけはして置くぜ」
「ええ? 先輩、それって、どういうことなんですか、幽霊でも出るんですか? それに、なぜおれには声がかからないんですか?」
「具体的に説明するのは、難しいし時間がかかる。そういうことが起きなきゃ、聞かないでいる方がいい話だ。起きたら分かるし、起きなければ気にしなくていい。世の中にそういう問題ってあるだろう? だから、起きた時、ああこのことかと思ってやり過ごしさえすればいいんだ。ただし、幽霊が出る話では、もちろんない。でも、形から言えば『牡丹灯籠』の話に似ていなくもないかもしれない。おっと、いけない。また野上を不安にしてしまったようだ。とにかく堅固な意思を持ってやり過ごせば大丈夫だから。じゃあな。幸運を祈る」そう言って先輩は引き揚げてしまった。

「何だか意味深な話だな」と堀井が言った。顔から好奇心が滴り落ちている。

「でも、今の時点じゃ、すでに終わってる話だよな。なら、それがどうなったかは、すでに野上にはわかっているわけだ」と露野がさすがに冷静な判断をする。

「ああ、残念ながらね」わたしは元気なくうつむいた。

「その残念とはどういう残念だい? 野上の反応を素直にとれば、回避できなかったという残念だと思うが」と大山がやはり大所高所から冷静な問いをかけて来る。

「ああ、その残念だよ」
「やはり、若い美女だったのかい?」神岡もさすがである。迷わず欲望の中心を射抜く問いをかけて来る。