京都七景【第十七章】前編
「もちろんあるわ。あるに決まっている。でなけりゃ、私が、こんなすっきりした気持ちになれるはずがないもの。でも、悔しいことに、私の心の底には、ほかにも黒々とした頑なな思いが、まだまだたくさん残っているの。だから、私はそれを何とか言葉に掬い出して冷静に対処できるようにしたい。そのためにも、自分の気持ちを言葉にするきっかけがほしい。そこで、お願いになるんだけれど、いいかしら」
「ええ、どうぞ。でも、返事は中身を聞いた後でいいですか? 聞かないうちは判断がつかないので」
「ええ、もちろんよ。でも、そんなに難しいことじゃないわ。だって、これからも、ときどき野上さんの話を、聞かせてほしいってことだもの。どうしてわざわざそんなことを、と思うでしょう? それにはこういうわけがあるの。
変な言い方だけれど、野上さんの話を聴き終わった後で、私はうらやましくなった。もちろん、こんな困難な人生を歩む人もいるんだと知って、初めはかなりショックを受けたわ。だけど、その体験を話す野上さんに、私はだんだん嫉妬を覚えるようになった。
だって、自分の体験を、できるだけ客観的、論理的に語ろうとするその姿勢に頭の下がる思いがするだけじゃなく、その語りがまた、生き生きとして目に浮かぶようでしょう、だから、素直に納得させられてしまう。私よりずっと大人に見えて、ちょっと、癪にさわったの。
でも、それだけじゃない。私にとって、もっと重要なのは、話す言葉や表現のなかに、私の回りの人たちにはない思いやりがあることなの。それが、とっても、うらやましい。
どうしたら、そんなふうになれるんだろう? 自分もなりたい、って思ったら。何だか野上さんにますます興味が湧いて来たの。
あら、でも誤解しないでね。尊敬の気持ちからよ、恋愛感情とかそういうのじゃないの。こんなことは断らなくても、これまでの話できっとわかってもらえるでしょうけれど。
そうして、野上さんの編み出した人生の対処法(大げさかな)を参考に、私の今までの行動や考え方を見直して、利害という優劣の関係じゃなく、互換的な(つまり立場を入れ換えた)相互理解に立つ人生を、生き直そうと決心したの。野上さんの話には、自分はあまり気づいていないようだけれど、私の学ぶべきヒントがたくさんある。私はそう思う。
だから、もっともっとたくさんの、そのときどきに野上さんが思ったり感じたりしたことを、いろいろ聞かせてもらいたいの。お願いできる?」
「うーん、おれを買いかぶり過ぎていると思いますね。おれはそんな立派な人間じゃないですよ。ただ目の前に次々現れるものを、悲しい、悲しいと思いながら、時々の判断で、仕方なくこなして来た。それを後から振り返ったら、それらしき物語ができてきたにすぎません。最初から何かを意図して行動したわけじゃなくて、すべてが偶然のなせる技だったのかもしれない」
「そんなに謙遜しなくていいの。あなたは、すべてを偶然にまかせて来たわけじゃないでしょ? そりゃ自分の自由にならないことは、偶然にまかせるしかなかったかもしれない。でも、その時々に自分の判断でして来たこともあった。そして、その自分でして来たすべてのことが今のあなたを個性豊かなものにしてくれている。そのことに、もっと自信を持っていいんじゃないかしら? しかも、その影響の一つとして、ここに救われている人間が現にひとりいるんですもの。
だから、あなたのヒントを頼りに、私の中の形にならない攻撃や怒りの気分を言葉に変換することによって、その怒りや攻撃の理由を自覚できれば、冷静で前向きな生き方が見出せるんじゃないかと、そんな予感がしてるの。
できれば、私が言葉にしたものを、あなたにも聞いてもらいたい。だってあなたのような経験の持ち主になら、きっと素直に(拙い表現はがまんしてもらうことにして)話せると思うから。
私、あなたの話を聞いたときに初めて気づいたのよ、自分の心を素直に聞いてくれる人が、本当はほしかったんだって。だから、お願い」
「そこまで言われたら、もう断れないなあ。わかりました。つつしんで聞かせてもらいますよ。里都子さんには、同じ悩みを悩んでいるものの気配が、どことなく感じられて、気がかりだったんです。どれくらいお役に立てるかわかりませんが、しっかり聞かせてもらいますから、どうか安心してください。それで、早速ですが、いつからどんなふうに話したり、聞いたりしたらいいですか?」
「ああ、よかった。出会いが出会いだっただけに恐怖心をあおって断られたらどうしようと思ってたの。本当にありがとう。地獄に仏とはこのことね」
「大げさですよ」
「いいえ、そんなことないわ。だって、これまでどれほど孤立無縁だったか。思い出すだけでも心が凍えてくる」
「ああ、その痛切な思い、おれにも少しわかります。つらかったでしょうね。
どうしてこんな悲しいことばかり自分には続くんだろう? たとえ、人に訴えることができても、それで自分に納得が行くんだろうか? いったい、自分はどうしたらいいのか? この世には神も仏もないものかって、おれも思いました。
でもそう思っているだけじゃ、だめでした。気持ちが堂々巡りを繰り返すだけで、何の解決策も生まれない。それもそのはず、もともと答えの出ない問いを重ねているだけですから。おれは、なんとなくそのことに気づきました。
ならば、まず、この堂々巡りを断ち切らねばならない。それで、とにかく自分の問いを日記に書くことにしたんです。すると、効果覿面、とはいきませんでしたけど、自分の思いを紙の上に固定できることがわかった。
まだ心の中にあるときは、一つの問いから、次々と別の問いが生まれて、それが切れ目なく答えを求めてくるから、最初の問いなどすぐに記憶から消え失せてしまいます。そのくせ、いつの間にかまた湧き出てきて答えを迫るので、とうてい始末にはおえません。
でも紙に書きつけておけば、そこが固定の一点となって消え去ることがない。そこから遡ることも、降ることもできるし、また立ち返ることもできる。つまり、反省することが可能になる。そうやって、おれは自分を見つめ直して、何らかの方策を立てることができるようになった」
「そう、そこなのよ、野上さんにお聞きしたいのは。そういう実体験からくる生きたヒントを教えてほしいの。お願いね、ぜひ。
それじゃ、野上さんにこれ以上の迷惑をかけるのは心苦しいので、今日みたいに部屋の西日を避けて真如堂に来たとき、話しを聞かせてもらえないかしら?」
「それはいいですね。大賛成です。戸外なら気分もくつろぐし、安全も確保される。危急のときには、距離が取れるし、逃げられもする」
「まあ、ご挨拶ね」
「あっ、皮肉じゃありませんよ。一般論です。どうか気を悪くしないでください。
それにしても驚きましたね。おれが真如堂に来るのが西日を避けるためだと、どうしてわかったんですか? あ、いや、そうじゃない、おれが今日ここに来るのを、里都子さんは予測していたんだった。その予測、どうやって立てたか教えてもらえますか?」
作品名:京都七景【第十七章】前編 作家名:折口学