京都七景【第十七章】前編
「おれも、別の答えをいろいろ探してみたんです。でも、必須の前提条件に、どれも矛盾してしまうんですよ。ですから、全て却下しました。でも、これは、あくまでおれの仮説ですから、違っていれば選ばなくていいんですよ」
「それは、そうなんだけど。それより、必須の前提条件の方が気になるわね。ねえ、聞いてもいい?」
「ええ、もちろんです。里都子さん固有の条件ですから。どんな答えも、この条件をクリアしていなければなりません。その条件というのは、こういうことです。
先日、おれが初めて里津子さんに会ったとき、どうして白衣を着てるのか、その理由を尋ねると、「実験はしたけれど、着替えるのが面倒で、いつもそのまま帰って来る」という答えでした。これをおれは必須の前提条件にすべきだと直感しました。なぜなら、この気分の中に、里都子さんの隠れた本心が透けて見えるような気がしたからです」
「私の本心が?」
「ええ、本心が」
「透けて見える?」
「ええ、透けて見える」
「いったい、どんな本心かしら?」
「それを、筋道立てて思い描けるかどうか、こんなふうに自問してみました。以下、そのときの自問自答を繰り返してみます。
人が、面倒だからと、実験着も着替えずに、大学から帰って来るのはどんなときか?
思いつく答えは、①忙しくて時間のないとき。②他のことに気を取られているとき。③心身ともに疲れて、普段の手順を繰り返すのが厄介なとき。
確か、時間には余裕があったようですから、①は除外し、②と③を合わせて、「ある種、我を忘れて夢中になる(あるいは、上の空になる)何かを心に抱えているからだ」とおれは結論づけました。
では、「夢中になる(あるいは、上の空になる)何かとは何か?」①薬学か②あるいはそれ以外のことか。
もし薬学に四六時中没頭してる人なら、きっと着替える暇も惜しんで、白衣のまま実験を続けるに違いない。実験が深夜に及べば、白衣姿で帰宅する夜も、あるいは、ままあるかもしれない。これなら、ありそうだ。よしこれをまず仮説Aとしよう。
さて②の場合はどうだろう。それは、専攻である薬学実験に、上の空であったことを示してはいないだろうか?
実験は、理科系学部に必須の重要科目である。しかも、細心の注意と手順、及び集中力の持続が求められる。だから、終わったときには、ほっとして開放感に浸るのは当然だと言える。だから稀には、ついうっかり着替えを忘れて帰りかねないことはあるだろう。
しかし、規程の実習時間内に教官がそれを見逃すだろうか? しかもいつもだと言う。それは、あり得ないことだろう。たぶん注意して、着替えるまで帰るのを許さないはずだ。
ならば、里都子さんは、どうしていつも実験着で帰って来られるのだろうか? ロッカーに別な白衣を用意して、わざわざそれに着替えて出て来るのだろうか? 何のために?
不特定多数の男に話しかけられないためだろうか。それはありそうなことだし、里都子さんもその効果はあると、さっき言っていたではないか。なるほど、だが、そのときは不幸中の幸だとも言った。つまり、それは偶然そうなったということだ。前もって計画していたというわけではない。
で、ここからがおれの仮説Bになります。
おそらく、里都子さんは何か心配事を抱えている。だから、つねにそれが気にかかって、大事な実験も上の空で行っている。あるいは行う気力をなくしているのかもしれない。
幸い、実験は、大概、班単位で行なうものだから、他の班員に任せることができる。きっと班員と教官には、ある程度その事情を説明して、何らかの了解をえているのではないか。それで、実験途中に退出して、着替えないまま蹌踉として家路につく。
おれはこの二つの仮説以外に思いつきません。極端な仮説で、気を悪くさせてすみません」
「いえ、いいのよ。変な言い方だけど、いろんな場合を考慮した野上さんの判断は、決して手加減がないから、逆に安心できるわ。
だって、そういうときは、実態を隠そうにも、すでにお見通しなんでしょう? 私としては、もはや隠す必要もないので、逆に緊張が解けてとても気が休まるもの。
そう、仮説Bに間違いはない。でも、これほどはっきり言い当てられると、何だかちょっと癪ね」
「すみません、おれも、情報が相互に矛盾しないよう推論を立てたはずなのに、出てきた結論には半信半疑でした。一般的な外見と、どちらも大きく外れているように思えたからです。
これを言えば、当たっても、当たらなくても、きっと里都子さんを傷つけてしまうだろう、ことによると、これから一言も口を聞いてもらえず、部屋も立ち退かねばならないかもしれない。そう思うと、両手にかなり冷や汗が出ました」
「どうして、そう思ったの?」
「だって、隠し事を言い当てられて喜ぶ人なんて、まず、いないじゃないですか。隠すのは知られたくないわけだから。
仮に、おれが言い当てたとしても、「そんなわけないでしょ」と冷笑的に突き放されるか、逆鱗に触れて「絶対にちがう、何にも分かっていないくせに」と言下に否定され、それ以後徹底して無視されるのが落ちです。しかも、当たらなかったら当たらなかったで、「そんな無礼なことを思っていたのか」って、軽蔑されて、信用を失墜するだろうし」
「そういうことか。ふふふ。それじゃ、今の私の気持ち、おしえてあげましょうか?」
「今、変な笑い方、しましたよね。そういうところに、里都子さんの容赦ない恐さを感じてしまうんだよなあ。だから、いいです。聞くのは、やめておきます」
「あら、約束を最後まで守ってくれないのね」
「約束ですか?」
「ええ、たしか野上さんの予想に、まず質問や意見を出して、それから事実をつけ加えたらいいって言ってたわ」
「確かに、そう言いましたね」
「でしょう? なら、その予想に対する、私の実際の気持ちも聞いてもらえるわよね?」
「そうなりますね」
「じゃ、聞いてくださる?」
「ええ、約束ですから。でも、怒ったりしませんか?」
「ねえ、さっきから顔とからだが妙にこわばってるようだけど、そんなに私が怖い?」
「その質問自体が、怖いです」
「まあ、本当に恐怖症にしてしまったみたいね、でも大丈夫よ、怒ってなんかいませんから」
「さっき、癪だって言ってましたよ」
「ああ、あれ。あれは、私の嫉妬なの。野上さんが、年下なのに私より精神が老成しているのが、ちょっとうらやましかっただけ」
「おれは、ちっとも老成なんかしていませんよ」
「ううん、私にはわかる。会食の時、いろいろ話してくれたでしょう? あれを聞いて私は悟ったのよ。この人は、自分の人生やその時々の自分を冷静に見つめてきたんだろうな。それが今、いよいよ実を結んで、自信をもって自分の道を切り開いている。私もそんなふうになれたらいいのに、うらやましいな、って。だから、怒るなんて思わないでね。とっても感謝してるんだから」
「感謝してる?」
「ええ、とっても」
「おかしいな。里都子さんが気を悪くするようなことを言ったのに?」
「いいのよ。だから感謝してるの。でも、このままだと、野上さんの警戒心が解けそうにないから、率直に言わせてもらうわね」
「ええ、お願いします」
作品名:京都七景【第十七章】前編 作家名:折口学