死神と魔法使い2
ケネスは深い思考の海に沈んでいた。だから、事態を把握するより先に腕を伸ばし、質量のある塊を自分の胸元に引き寄せる。
それは、経験の浅い魔道士が信号に気づかず進むのを、自身の思考を中断することなく止めるという、数多の経験から繰り出された熟練の動きだった。
一拍遅れて、激しいクラクションと周囲から上がる悲鳴に、ケネスは心臓が止まりそうなほど驚いて、顔を上げた。
「あ」
ヴィクトルは、赤信号にも関わらず飛び出した少年が、先ほどカフェで見た中年の男に抱え込まれるのを見た。それと同時に、少年の死亡予定が消えるのも。
隣のルイスに素早く手を伸ばし、腕を掴む。ルイスが驚いたように声を上げた。
「わっ! なんですかヴィク――え!?」
まるで積み木のように、世界があっけなく崩れ落ちていく。建物も、街灯も、道路も、そこを歩く人々も。
悪夢のような光景は、次の瞬間、早回しのように元へと戻っていった。最後の一片が空にはまると、何事もなかったかのように、町の喧騒が周囲に満ちる。
「えっ……ええ……」
ルイスが言葉に詰まっていると、ヴィクトルは額を抑えて呻き声を上げた。
「ヴィクトル、大丈夫ですか?」
「あー……大丈夫だ。ここまで大規模なやつは、初めて見たな」
「今のなんです?」
道路脇のベンチにヴィクトルを座らせながら、ルイスが尋ねる。
「死亡予定を変更した反動で、世界が作り直されたんだよ。普通は見えないんだが、珍しい光景だから、ちょっと見せてやろうと思ったら……とんでもなかったな」
「ああ、それで腕を掴んできたんですね? ありがとうございます、珍しいものが見られて嬉しいですよ。でも、負担が大きかったのでは?」
ルイスはハンカチを取り出して、ヴィクトルを扇いだ。ベンチの背にもたれたヴィクトルは手を振って、
「見せるぐらいなら、なんてことはない。今回は規模がでかすぎて酔っただけだ。ほら、あそこの信号」
ヴィクトルが示した先で、人だかりができていた。上等な服を着た男が、カフェで見かけた男の手を握り、しきりに頭を下げている。その後ろで、これまた上等な服の女が、少年を強く抱き締めていた。
ルイスはヴィクトルに向き直ると、首を傾げ、
「セレン女史の時もありましたか?」
「あった、けど、ほぼない。まあ、まず気づかないな。夫婦とか、親子とか、関係が近いと反動も少ないんだ。今回の二人は、全くの他人なんだろ」
手を握られたほうの男は、遠目からも分かるほど戸惑った様子を見せている。ルイスはもう一度そちらに目をやって、
「彼が魔道士なことも関係ありますか?」
「ん? ああ、俺に気づいたからな。そうだな……そう……うん。あいつが魔道士なら、かなり優秀な奴だろ」
「そういうの、関係あるんですか?」
ルイスは、じっとカフェで見かけた男を観察した。うだつの上がらない見た目をしているが、離れていても死神を見分けたのだから、それなりの実力はあるのだろう。
「世界を作り直す規模が大きすぎる。多分、あいつ自身が世界を変えられるんだろ。たまにいる、不出世の偉人って奴だな」
「へえ! じゃあ、僕らは、歴史の変わる瞬間を目撃してるんですかね?」
「あー、多分。あれだけ大きく作り直されたんだ。本人への影響もでかいだろうな」
ルイスは、カフェにいた男から、彼の手を握って離さない、上等な身なりの男に目を向けた。
「そうですね。きっと、これからは嫌でも表舞台に立ちますよ。というか、引きずり出されるでしょうね」
くすくす笑いながら、ヴィクトルへと振り返る。
「あの大騒ぎしてる男性、ダリウス・ボイトラーといって、魔道士の間では有名なパトロンですよ」
この日は天気が良かった。
降臨祭も近いというのに、降り注ぐ日差しは暖かく、連日の寒さが嘘のような陽気だった。その為、運動不足を医者から指摘されたダリウスは、愛する妻と幼い息子を連れて、車を降りる。
来年から小学校に通う息子は、歓声をあげてはしゃぎ回り、妻の注意する声が度々響いた。
ダリウスは最近目立つようになってきた腹回りをさすり、息子が車道に飛び出さないよう、声をかける。
「ほら、お父さんと手を繋ごう」
「やだー!」
子供扱いを嫌がる息子は、ダリウスが伸ばした手に捕まらないよう、素早く駆け出した。
信号が赤になり、周囲の人々が足を止めても、幼い息子の足は止まることなく、
「危ない!!」
それは誰の声だったか。自分なのか。周囲の第三者か。
息子が道路に飛び出し、妻の悲鳴が響き、激しいブレーキ音が鳴る。
その瞬間は、まるで神が時の流れを遅らせたかのよう。
ダリウスが絶望に顔を歪めながら伸ばした手の先で、止まりきれなかった車が交差点を横切り、焦茶色の髪の男が息子を腕に抱いていた。
その光景以上に神の奇跡を感じさせるものなど、ダリウスは知らない。
ケネスは全く事態が飲み込めないまま、目の前にいる男のなすがままになっていた。
手を握られ、激しく上下に振られ、何度も下げられる頭をぼんやり見つめる。
一体、何がどうしたのか。いつものように考え事をしていて、気づいたら見知らぬ少年を抱き締めていたことに仰天した。
少年の両親から咎められる前に退散しようとしたが、相手は驚くべき素早さでケネスの手を取り、早口で喋り出す。
あーだのうーだの、言葉にならない声を発しながら、周囲に助けを求めて視線を向けるが、誰も手を差し伸べてくれなかった。
「本当に、なんとお礼を申し上げれば良いか! 是非、お礼をさせてください!」
「ああ、えっと……ミスター……」
「ああ! これはこれは! 名乗りもせず失礼いたしました!!」
男の手が離れたので、ケネスはこの隙に逃げようとしたが、相手は驚くべき速さで名刺を取り出し、ケネスの手に押し付ける。
名刺一枚出すのに、全てのポケットを確認しなければならない自分とは大違いだと、ケネスは諦めの心境で視線を落とし、息が詰まるほど驚いた。
そこに書かれた「ダリウス・ボイトラー」の名は、ケネスでさえ知っている。唸るほど金を持ち、一般人でありながら魔道士を支援する変わり者。彼の支援で世に出た魔道士は、枚挙にいとまがない。
「どうでしょう、今夜の夕食は、是非我が家で」
「よ、喜んで! 伺います!! あ、わ、私の名刺を!」
大慌てであちこちのポケットに手を突っ込むケネスに、ダリウスは満面の笑みで歓迎の意を表した。
この出会いこそ、後に「世界を変えた偉人」と語り継がれ、魔道士の地位向上に大きく貢献した発明王、ケネス・バルコン誕生の瞬間だった。