Scythe
柚本が頭を下げて、おれは愛想笑いを返しながら会釈した。男子ウケしそうな派手な顔立ちで、礼儀正しい。しかし打田と石森曰く、女子からの評判は今イチらしい。ふと思うのは、実習の一ヶ月をやり過ごしたら、こういう人間はどこに行くのだろうということ。教師になるとすれば、見上げてくる子供の視線に無関心な目つきそのものから、変えていかなければならない。そんなことを考えていると、その目が突然おれの方を向いた。
「羽村さんって、長いんですか?」
「今年からですね」
おれが答えると、柚本は周囲を警戒するように目をぐるりと回した。赤信号を待ちきれないような、忙しない目。パンプスの踵は点字ブロックの急所を突くように踏んでいる。おれは周りに小学生がいないことを確認してから、前を向いたまま言った。
「何か、ありましたか?」
柚本は目を伏せて首を横に振ったが、この状況自体を面白がっているようでもあった。
「羽村さん、若いじゃないですか。珍しいなって。あっ、すみません。そういう意味じゃなくて」
手をパタパタと振って自分の発言を取り消そうとする柚本に、おれはまた愛想笑いを返した。羽村家の事情は知らない。ただ、ドラ息子を何とか社会の役に立てようとした結果、エリートの両親が思いついた最善策が『これ』だった。それだけのことだ。おれが黙っていると、柚本は続けた。
「若い人って、自分のことで精いっぱいな気がするんですよね。わたしがそうだから、特にそう思います」
車道側が黄色信号に変わるまでは、まだしばらく時間がある。おれは柚本の方を向いた。
「若いのに、そういうことを考えるって。しっかりしていますね」
教育実習は、ちょうど二週目に入ったところだ。初日にはなかったピアスが復活し、髪の色も少し明るくなっている。おれと目が合い、柚本は隙の無い笑顔を浮かべた。
「わたし、自分は先生になりたいけど、先生って立場の人はずっと苦手だったんですよね。子供はもっと自由でいいと思うし。好きに生きて好きに楽しんだらいいって」
おれは自分の耳たぶに触れて、間接的に柚本のピアスを指した。
「お手本ですか?」
「多分、怒られると思いますけど。これぐらいで細かいことを言う人なんて、それ以外のほとんどを見落としてますから」
車道側の信号が赤に変わり、おれは旗を握り直した。六年生の本堂博樹がスタートダッシュを決めるように頭を低くしていて、おれは言った。
「まだ赤だぞー」
「あー、待ちきれねえ〜」
この前のめりな感じは、聡一を思い出す。その体がほとんど車道側に出ていることに気づいて、おれは手を前に差し出した。
「もう一歩、後ろに引いて」
「はい」
本堂は素直に体を引くと、歩道の信号が青になるのと同時に走り出した。何とか旗を差し出すのは間に合ったが、この道は元々流れが速い。だから、ときどき赤信号でアクセルを踏む馬鹿がいる。そうなれば、本堂はミラーでも引っかけられて怪我をしたかもしれない。そして今、柚本はおそらくこちらを見ている。ピアスに気を取られていて、飛び出しかけている本堂に気づかなかった。そう言いたいんだろう。確かに人の命に比べれば、ピアスなんて他人の耳に空いたコンマ五ミリの穴に過ぎない。
おれは、旗を持ってゆっくりと横断歩道を渡り始めた。みんな、短い青信号の隙間を縫うように早足で歩いていったが、柚本は横断歩道の真ん中でふと足を止めた。その目が羽山の方を向いていることに気づき、おれは言った。
「あいつと、何かあったんでしょう」
「特には。ただ、目で追われますね」
柚本は小声で言うと、目を伏せて歩き出した。見た目が軽ければ、真面目に取り合わない。そういう風に思われただろうか。実際のところ、小学校の生徒たちに危害が及ばなければ、何がどうなっても構わない。そういう本音は、おれが他の人間のことを見透かしていると自負しているのと同じように、柚本からも見抜かれているのだろう。
昼、とん八のランチタイムを捌き切って少し経った辺りで、いつも通り常連客の桐下が現れた。定年後も小学校に顔を出している非常勤の先生で、揚げ物が大好物な割に細身だ。格好もいつも同じで、カーペットのような生地の上着はしわが寄り、肩の部分が鞄の紐で削れている。注文はいつも同じで、ヒレカツ定食と塩を盛った小皿。他に客がいないことを確認すると、桐下は苦笑いを浮かべた。
「眉間が、地割れみたいになっとるよ」
「色々と考えることが多いんです」
おれが即答すると、桐下は衣に咽ながら笑った。
「枝川さんが目を光らせてくれるから、他が楽をできる。そういうもんだというのは、分かるけどね。今どき、保身に走らずゲンコツを出せる方が、珍しいから」
例え話だろうか。おれは表情が伝染したみたいに、自分が桐下と同じ苦笑いを浮かべていることに気づいた。
「ゲンコツって。昭和じゃないんですから」
「例えだよ。長年この町に住んでるとね、本当に好き勝手やる連中が増えたと思うよ」
「あの、黒いバイクとかね」
おれが言うと、桐下は味噌汁を飲みながらうなずいた。
「そう、まあ教育者がこんなこと言っちゃあなんだが……」
そう言って後を引き取らせようとする桐下の顔を見て、おれは笑った。
「死んでよかった?」
「そんなこと言うもんじゃない」
桐下は眉をひそめて、おれが肩をすくめるとようやく笑った。
「でもまあ、本音はそんなところだね」
会話の温度が下がり始める前に、おれは話題を切り替えた。
「朝、誘導員をやってるボラに、羽村ってのがいるんですが」
「あの、目すら合わせない男かね。なんか、やらかしたのか?」
「いえ、これから何かをしそうだなっていう、嫌な予感がありまして」
おれがそう言うと、桐下は顔を上げた。桐下家は、教師になった本人以外、全員警察官だ。息子も、現役の機動隊員だ。
「羽村ね、ちょっと調べさせてみようか。まったく、このトンカツは美味いけど、あんたは本来、警察官向きだと思うよ」
「どうでしょうね」
おれは店主の顔に戻った。警察を志したことはないが、曲がったことが嫌いで放っておけない性格は、適性があったのかもしれない。
週末を跨いで、月曜日。朝日が出る直前の早い時間に、打田はまた石森と待ち合わせをしている。おれは聞いた。
「どうして、早起きしてるんだ?」
おれの隣に立つ打田は目を逸らせて、ひゅうと口笛のような音を鳴らした。
「口笛、上手いな」
おれが言うと、打田は自分にしか聞こえない音を拾われたように、肩をすくめた。
「吹けないよ」
「じゃあ、今のはなんだ?」
「これ、吸って音出してるから」
打田はそう言うと、音を再現して自分で笑った。おれは羽村が出てくる反対側の交差点に目を凝らせた。桐下の親族から寄せられた『情報』は。冗談で済まないものだった。
羽村武路、三十二歳。羽村グループのごく潰し。何度も、つきまといで捕まっている。最後は五年前で、相手は近所に住む女子高校生だった。とんでもない野郎だ。
「しわ」
打田はそう言うと、自分の眉間をとんとんと叩いた。おれは自分の眉間に手を当てて、目を丸くした。
「なんてこったい」
打田は口角を上げると、石森の姿を目で探しながら言った。